オジーオズボーンなど聴いていたころ、なぜかジャケ買いしてしまったこのCD。

 彼らはまさに彗星のようだった。
 …などというと、ちょっと恥ずかしさすらあるが。

 このアルバムの中で私が好きだったのは「greatful when you are dead」だったのだが、そーいやジョジョの奇妙な冒険の中にも「グレイトフルデッド」とかいうスタンドが出てきていたが、それは関係あるのだろうかと当時はぼんやり思ったものである。

 最後のアルバムとなる(といっても2枚目だが)作品は、なんだがとってもインドかぶれだったし、その後間もなくして、解散→ベストアルバム発売となってしまった。至極残念である。

 大学の軽音サークルのちょろいライブを友達と見に行ったとき、なぜかメンバー4人全員がリクルートスーツという衣装でどちらかというとおっさんばかりの、要は、当時のその世代の「かっこよさ」からかなり離れた人たちが、かなり上手に「greatflu when you are dead」と「Hush」を演奏したときのかっこよさには身震いしたほどだった。

 結局、彼らの発売したベストアルバムよりも、この「K」が私にとってのベストアルバムであった。…クーラシェイカーの。
 もはや時代はモダンではなくポストモダンであり、それすらもあるジャンルでは古さすら感じさせる状態であるが、「モダン」という言葉はすでにその内に「懐かし」という状態すら孕んでいるようである。その場合、「モダン」というよりは「モダーン」とかなんとかいう発音になるのかもしれないが。

 さて、前置きが長くなった感があるが、この本はタイトルからして、エログロナンセンスの流行った頃の、「探偵小説」というか、古くて胡散臭い新聞の猟奇特集の見出しのような、そのような風情があるではないか。
 
 さらにいえば、文庫版に献辞をよせて居るのが京極夏彦氏と高橋克彦氏なのだから、私が思わず手に取るのは当たり前と言えば当たり前と言えるだろう。

 明治の頃の血を吐く松、迷路での人間消失、消える幽霊電車、天に浮かぶ文字…それを昭和の初めの早稲田の不良書生「阿閉君」が取材して、下宿先のご隠居「玄翁先生」は安楽椅子探偵のごとく縁側で謎を解いていく。そして終末に向けて明かされていく意外な深層…。

 あくまで探偵小説なので、この程度のストーリーしか語れないのだが。

 ええと、探偵小説という響きには推理小説には無い、なんというか、猟奇さを孕んでいる気がする。それは江戸川乱歩先生によるものか。

 モダンの中に潜むレトロ、探偵が挑む猟奇(エログロ)、トリックをあばくロジック。
 そういった一見対極にあるようなものが絡みあるからこそ、そこに何とも言えぬ魅力が湧いてくるのだろう、と両価性の意義を考えた日。
 ケースだけが手元にあって、ずっと無くしてしまったのかと探し続けていたのだけれど、思っていたより身近にあったのでした。

 幅広くお洒落な仕事している人のコンピアルバムなのだけれど、この最近の風潮にわりとコビコビだと思えなくもない選曲の数々は、やはり飽きがこないし、耳なじみが良いもの。

 こんなふうに、何の衒いもなく、ただ身近にあって大気のようで、身近に無いと恋しくなる、
 大切な人にとって、自分がそういうオンガクになれれば、などとぼんやり思ってアイスカフェオレを飲む、たまのお休みの夕暮れ時。
本の帯で糸井重里も言っているけれど、ほんとに「ウケた後のことは自己責任です」ってね。

でも、忘年会とか飲み会とかで、友達とコンビを組んで漫才でも一発、とか、宴会芸として一人漫談(楽器等の使用を含む)とかかまそうと思っている方々は、一度読んでみると良い。

例のすべてがクリティカルヒットなおもしろさってわけではないが、「笑い」をマニュアル化したという点においては、なかなかやるな、というか、その仕事、私がしたかった、という羨ましさすら感じているのである。
 定番といえば定番なのがこの本。

 さて、当直におけるご法度とは、「やばい人を見逃す」「禁忌な処置をする」であると言えるだろう。それ以外のことは大抵、周囲のフォローで事なきを得るものだ。

 まあ、どの場合でも新人の心得としては、「謙虚」になることが一番大切だろう。他者の意見の介入する隙の無い人は、必ずといっていいほど大きなミスを犯すのである。。

 「やばい人」がたち現れるのは、いつだって明らかにやばい状況ではない。なんだか最近疲れやすくって、なんていう不定愁訴の人が、よくよく調べていくと、かなり重症の糖尿病だったりするわけで。

 「禁忌な処置」についても、自分の診断が180度異なる可能性を踏まえ、専門家やベテランにコンサルテーションすれば防げることだろう。其れで防げなかったミスは、どこの誰が何かをしようと、起こるべきものだった、とも言えるだろうし。

 やる気、とか、熱血さ、とかには乏しい私だが、謙虚さだけは忘れずに保持しようと、この夜も堅く、誓う。
 荒俣宏いわく、「大魔王」。
 
 こういうひとにわたしはなりたい。

 って、思ってましたけど。きっとこの域に達するのはかなり難しいのね。

 憬れの、大人。ドラコニア。
 幼い頃、この世のすべてを知りたいと思っていた。
 大人になるということは知ることが増えていって、知識人としての完成型に至ることだと思っていた。
 
 しかし、それは夢想だったのだと、大人に近づくにつれ知ることになる。

 だが、それでも、「知識」というものに対する飽くなき憬れは確かに私に残っていた。その残滓に背を押されるように、私はちょっとした「博物学」に惹かれてしまう。

 それが、荒俣宏と澁澤龍彦だった。

 著者は本書の前書きでこのように記している。

 「もうずいぶん古い話になったけれども、かつて異端や博物学の分野にあって神のように崇敬を集めていた故澁澤龍彦大魔王が、いちどだけ、筆者の目の前まで降臨したことがあった。それは『フローラ逍遥』の挿絵に使えるような古い植物図を所持せるや否や、と、筆者に下問あったのである。当時はろくな図譜を所持していなかったが、その後、筆者は一念発起して植物図譜をあつめだした。澁澤大魔王がいずれ第2の花の本を書かれる際、今度こそは喜んでもらえる傑作が手渡せるように、と願いつつ。
…だが澁澤大魔王は筆者の集めた図譜を見ることもなく鬼籍に入られた。本書は、本来ならば、澁澤龍彦その人が手がけるべきテーマの書物であるはずだ。あの『フローラ逍遥』に一歩でも近づこうと努めたが、いまだ力及ばず、ただ畏れつつも冥府なるわが大魔王に本書を捧げるよりほかはない。」

 …さて、引用が長くなった。要は、古今の花図譜とそれにまつわる蘊蓄の本なのである。

 最近、ウンチクとかトリビアとか、そういう「役に立ちそうで立たない知識」が評判のようだが、それは人に根源的に宿る知識欲求をくすぐっているからだろう。
 そしてそういう欲求に忠実に「知識」を追い求め、博物学に至ったのが、私が敬愛してやまない澁澤龍彦と荒俣宏だと思っている。

 この本に掲載されている本の中にはもちろん、花空=架空の花や植物もある。まったくもって、マニアックでお洒落な本ではないか。
 さてさて、図らずも先日のレゴに対する駄文が、予言のようになってしまった訳だけれども、アメリカGPの中継は、かなり楽しませてもらった。
 
 もちろん佐藤琢磨がついに、表彰台に上った、というのがメインテーマであるのだが、それを抜いてもハプニングの多い、見所の多いGPだった。

 佐藤琢磨は速かった。

 今まで、良いところまでいきながらのマシントラブルだとか、クラッシュに巻き込まれるとか、ピットイン戦略のミスだとかで表彰台を逃してきただけに、この3位は、本当によかったと祝福したい。

 そして、上記のとおり、レゴのまんま、この夜のシューマッハ(ミハイル)も速い人でした。

 さらに、フェラーリ仲間のバリチェロ(最速のナンバ−2ブラジリアン←キャッチフレーズ)もやはり2位。

 今回はクラッシュが多くて、完走できたのはわずか9人だけだったし、ラルフ(弟)シューマッハもクラッシュして、病院に行っちゃったし、改めてF1の怖さを感じましたね。

 でも、本当に、得意のスタートでフェラーリ勢2人に行く手を遮られ、同じホンダのバトンが早々にリタイヤした中で、中盤以降どんどんとラップタイムを更新していく琢磨は、確かに格好良かった。

 解説の片山右京も徐々にテンションがあがっていっていたし、最後、シャンパンファイトで皇帝ミハイルと笑顔で肩を抱き合う佐藤琢磨に、改めて心からの祝福を送りたい。

 …次のフランスGPも、観れると良いなあ。

 
 いやあ、先日思ったんだけれども、深夜のF1番組って、どうしてずっと見てしまうんでしょうね?あの、変わらないテーマ曲のせいでしょうか?
 
 さてさて、最近は映画でもアニメでもなんでもレゴになってますが、皇帝もレゴになっていたとは驚きです。
 しかも、フェラーリつながりで、バリチェロがお供についてるあたりも泣かせますね。弟のラルフでは無いのですか。ああ無情、フェラーリ&レゴ。

 以前、「王子」と呼ばれる後輩が、高校卒業時に部活の後輩たちから渡された寄せ書きを魅せてもらったことがあるんですけど、
「いつまでもお元気で!ユミ」「〜大会のときの先輩はかっこ良かったっす!佐藤」みたいな普通の寄せ書きの合間に、

 M.シューマッハ byラモス

 …と書かれていて、かなり爆笑させていただきました。
 この脈絡の無さ、しかし、Mとあるからにはミハイル(兄=皇帝)のことなんでしょうが。王子は当時、何において最速の男だったのか…?

 閑話休題。

 最初はなんだか現実味の無い車が同じところをぐるぐる回っているだけじゃん、などと、冷めた目で見てたんですが、つらい試験勉強中などにテレビをつけっぱなしにしていたところ、…意外とおもしろいじゃないの!と思った訳です。

 まず実況/解説のバランスがよく、飽きさせない。ドライバーの人間ドラマ(誰と誰が仲良しだ、とか、誰はチームを変わったらのびのびして成績が伸びている、とか)を語ってみたり、チームの状況など語ってみたり、なんだか視聴者を親しい気持ちにさせるのです。

 そして、なんといってもピットイン。ほほう、この車は2回で乗り切るつもりなのか、とか、このピットインではタイヤは替えずに給油だけなのか、とか、見れば見るほど事情が分かってきて興味津々です。

 ときにマシントラブル。無茶をしてピットまでもたなかった、というのはよく見かけること。クラッシュは見ていてつらいですが、マシントラブルでそれまで好調だった選手がコースを去るのを見ると、「ガンバレ」と励ましたくもなるというもの。

 しかしこの、一寸先は闇の、まさにマッハの世界で、やはり安定してトップを走り続けるシュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)なミハイル・シューマッハは、赤い皇帝の名にふさわしいヒーローである。

 赤い皇帝…(ん?シャアザクっぽい響き)
 
 あと、ラルフも、バリチェロもがんばれ。
 でも、私はライコネンも結構好きです。
 北欧風/シンプルモダンなリビングルーム。
 そこにちょっぴり未来感をプラス。
 
 住空間にあわせたBGMコンピレーション。

 未来住宅でのスタイリッシュな時間がテーマ。

 こういうへなちょこなコンピ、わりと好きです。
 へなちょこに見せかけて、おかしなこだわりがあるところも。
 …あれれ?わたしってば、要は、
 こだわり好き…?

 ふわふわで ダルダルで ピコピコで キラキラ。
 いやあ、こんな擬態語でしか、このおもしろかっこよさは語れないのね。
 あらかじめ断っておきたい。
 私は音楽というものを語るだけのバックグラウンドが十分にある人間ではない。体系だって学んだ何かがそうそうある訳でもない。一般に「クラシック」というものには「習い事」として触れていたのであり、コネも金もたいした才能もない私はこれ以上続けてもせいぜいピアノの先生どまり、と、当時習っていた先生にいわれ、早々と断念したという経緯があるだけである。それは自覚の上での、読書の記録、と認識していただきたい。
 ショスタコーヴィチへの思い入れにしても、幾曲かの交響曲を聴いたということ、「森の歌」に合唱団として参加した、そのくらいである。
 しかも、久しぶりに丁寧に読もうと取り組んでいるので、おそらく分割して記録せざるを得ない。忘れた頃に次の章の記録をするかもしれない。
 
 1:真実の音楽を求めて
 2:わが人生と芸術の学校

 この証言は完全に時間軸にそっているでもなく、テーマが分別されているでもなく、ショスタコーヴィチの思い出自分語りの態である。そんなわけで、読者も年老いたショスタコーヴィチがつれづれなるままに語る話を傍らで聞いているような、そのような構成である。

 ショスタコーヴィチは決して裕福ではないが、それなりに芸術を愛するポーランド系の家庭に生まれる。彼は17の頃に、当時高名な芸術評論家の主催する映画館でピアノ弾きのバイトをしていた。金を稼ぐためである。しかし、その評論家は金を払おうとしないばかりか、
 
 「…かれは私にきわめて美しい、崇高な演説を行った。…給料を請求したりすることで、粗野で強欲で利己的な私の水準まで芸術を引き下げ、芸術を冒涜することになる。要するに、給料なんか請求するべきではない、という趣旨であった。…」
 「わたしはただひたすら芸術を憎んだ。芸術は嘔吐を催させた。」

 本当に、ショスタコーヴィチは、芸術を憎んでいるのか?
 …私はそうは思えない。彼の創作を聴く限り、彼は音楽に対する愛情を持っていると思われる。では、何を憎んだのだろうか。
 この疑問を胸に止めて読み進めてみよう…。

 彼はこうも語る。
 
 「ところで、わたしは自分に向けられる粗雑な態度に耐えられない。いわゆる『芸術家』がそのような態度をとるのにも。
 粗雑さと残虐さは、私がなによりも憎んでいる性質である。このふたつはたいてい結びついているが、その例の一つはスターリンである。
 レーニンは『スターリンの唯一の欠点は粗雑さである』と述べていた。スターリンが党書記長の地位にいたのは、粗雑さがとるに足りない欠点だからということで、それどころか粗雑さはむしろ勇気とほとんど同じものであった。しかし、その行き着いた果てがどのようなものだったかは、私たちは誰でも知っている。
 …しかも粗雑な人間は、政治であれ芸術であれ、どんな分野でもとにかく活躍する。…いたるところで独裁者、専制君主になろうと努め、あらゆる人間を圧迫しようと努めている。その結果は、普通はきわめて悲しいものとなるのである。
 …わたしがとりわけ憤慨させられるのは、これらの冷血漢の周囲に、つねに心底からの崇拝者と追随者がいるという事実である。」

 音楽学校時代の女子同級生ユージナについてはこう語っている。
「ユージナはどんな曲を弾いても『他の人とは違う』ものになる。大勢の男女の崇拝者たちはそれに気も狂わんばかりに惚れ込んでいた。わたし個人としてはm、彼女の演奏に納得できない点がたくさんあった。これはどういうことかと彼女に尋ねると、たいてい、『わたしはそう感じたの』というような答えが返ってくるのだった。いったい、ここにどんな哲学があるといえようか。
 …ユージナはいつでも超満員になるほどの聴衆を集めていた。彼女については聖女であると語る人が後を絶たない。
 私はけっして反宗教活動家ではなかった。信じたければ信じなさい、という立場である。しかしユージナは、自分が聖女あるいは女性の予言者である、と本気で信じていたようである。
 ユージナはいつも、まるで説教でもするかのように演奏していた。…ユージナのあらゆる振る舞いには、なにかしらわざとらしい、ヒステリーじみたものが非常にたくさんあった。」

 なるほど、私はこれらを目にして、すっかりショスタコーヴィチが大好きになってしまった。彼が憎むもの、嫌ってしまうものは、「崇拝」とか「心酔」ではないだろうか?
 芸術こそ生活よりも優先されるべき至上のものである、否。
 権威ある人物の発言はいつも正確な判断基準となる、否。
 党書記長は偉大な人格者であり尊敬すべき存在である、否。
 芸術は神のみ業である、否。
 劇的で神秘的でカリスマ性が、芸術家に必要である、否。

 ショスタコーヴィチは常に、「私は…思う」「わたしからすれば…」という、あらゆる判断にあくまで「自分個人の意見」という前置きを欠かさない。自分の発言が発言以上の意味(すなわち信仰のような状態)を引き起こすのを怖れているかのようである。

 絶対無二の価値は存在しない。
 あらゆる感想はあくまで自分の好みであって、異なる思想を糾弾する優位性もなければ、異なる思想から糾弾されるいわれもない。

 スターリン体制下のロシアで、愛国的作曲家として持ち上げられていたショスタコーヴィチは、その根底に、明らかな自由への意思を漲らせていた。

 
だからー、はまってるんですよ、このライン。

そろそろ蒸し暑くなってきそうなので、フレッシュを愛用してます。
冬場はリチャージもおすすめだけどね。
はまってます、これに。
さっぱりしてるのに保水力もあって、翌朝の肌がしっとりぷるぷるなんだもの。

不規則な生活だけど、これにしてから調子がいい感じ。
肌が荒れているときも沁みたりしないし。

汎用性が高い感じなのもいいね。
 とっても名著。

 まずこの著者が熱い。かといって直情的な訳ではなく、バランスよく熱心なのである。そして自分の理論を誇るよりはむしろ反省の気持ちの強いところに、筆者に対して好感が持てる。

 精神疾患、と銘打たれているが、臨床の現場で(外来でも入院でも)は医師ー患者関係の基本は「面接」なのである。この本は日常診療で患者と面接する立場であれば基本として押さえておくべき内容だ。
第一部:理論編
第二部:臨床編

に分かれているが、一般の方は第二部だったら飽きずに読めると思う。
 
 専門職の方は…きちんと理論編も読むといいと思う。すごく上手にまとまっているし、たとえが適切で分かりやすい。臨床編もいくつかの症例をもとに、分類(ICD-10)の手順や用語の使い方など解説も豊富である。

 「医療面接」に訪れる患者は誰でも常に何かしらの不安を抱えているものだ。精神疾患に限らず、すべての医療者は一度はこの本に触れておく方がいいかもしれない。
それが救急医療の本質なのだ、という。

だから、夜、本来休みたい時間に交代で働く人たちがいる。

 それでも、少し患者がとぎれ、落ち着いてカルテ整理をして、ふと窓の外をみると、ゆるゆると明るくなっていく様をみると、疲労感と同時に充足感も訪れる。
 
 幸あれ、すべての人に、幸あれ

安っぽいヒューマニズムでなく、疲労した全身の筋肉がそう言うのだ。私にできること、一人にできること、その小ささはしっかり分かっている。今夜だってたいしたことをしたわけじゃあない。でも、少しだけ、歯車として動くことができた。それでいい。
 
部屋に戻ると、同僚が自分のデスクに突っ伏して寝ていた。先輩たちは食事しながらうとうとしている。この休息は長くない。また働くのだ。
 だが、今は、
わずかでもいい、すべての人に、安らぎがありますように

 柄にもなく、誰にともなく、祈りたくなるのだ
「これはほんとに名作だよ」

と言って、同僚が貸してくれた漫画である。

 この漫画の主人公はバンドブームでなんとなくメジャーデビューしたものの、「本物のロック」にこだわり、「本物の愛」を求めているのに、おいしい話には簡単に心がぐらつき、とりあえずファンの娘たちと愛のないセックスを繰り返してしまう。
 
 後悔するのに、繰り返す。その度に訪れる空虚感。そんなとき彼の前だけに現れるのが、彼の尊敬するアーティストの幻想なのだ。
 ロックを求めるときには「ボブ・ディラン」が、愛を求めるときには「レノンとヨーコ」が。
 幻想たちは説教をする訳ではない。時に語りかけ、見守るだけだ。しかし主人公はそこに「自分で意味を見いだす」。

 主人公がやっと求めていたものを手にし始めるとき…幻想たちは静かに去っていくのだ。

 何かを求めるだけでなく、探しているとき、人は本当に弱いと思う。自信が持てないからだ。自分に対する疑問があるから何かを探すし、方向性に迷いを生じる。あこがれの対象と自分とを比較し、現実に打ちのめされる。誰にでもあることだ、誰にでも。

 この情けなさ、弱さを私は愛する。
m-flo 矢島正明 Patrick Harlan melody. 山本領平 AI 日之内絵美 Rum Bloodest Saxophone Dragon Ash CD エイベックス 2004/05/26 ¥3,059 あまりにもゴージャスでスペクタキュラス。そんなアーティストとのコラボーレーションの数々を収録した3rdアルバム。Dragon Ash、クリスタル・ケイ、CHEMISTRY……。どんなアーティストとでも融合可能、しかも、まったく新しいスタイルの音楽をどんどん生み出していく。その柔軟性と音楽性の広さ、そして、「いろんな人と音楽を楽しみたい…

 このタイトル、最初にみたときは、KOJI1200(テイトウワ+今田耕司)の「ナウ・ロマンティック」を思い出した。…全く関係ないけど。

 坂本龍一とのコラボが気になったので買ってしまった。

m−floってやっぱりかっこいいなあ、と。
 楽しそうにやってるところが、きっと。
1825年、オーストリアのウィーンで、1人の老人が自殺を図った。彼の名はアントニオ・サリエリ。かつて宮廷にその名をはせた音楽家である。そのサリエリが、天才モーツァルトとの出会いと、恐るべき陰謀を告白する。「モーツァルトは殺されたのでは…」。19世紀のヨーロッパに流れたこのミステリアスな噂をもとに…

 私がまだ音楽(クラシック)でご飯を食べていけたらいいな、と思ってピアノを弾いていた少女だった頃、モーツアルトはあまり好みではなかった。
 私はどうもその頃から「苦悩する天才」が好みだったらしく、その時代の音楽家たちの中ではベートーヴェンが好きだった。
 モーツアルトの音楽は、どんな曲調の楽曲でも不思議と軽やかさがあって、漠然と、しかし、まさに天上の音が降りてきた感じを受けていた。

 ノーテンキな天才は、愛されると同時にやはり憎まれるものである。
 天才を夢見て天才になれなかった、あるいは自分は天才にはなれないと気づく、内向的な秀才は、ノーテンキな天才を憎むよりほかに自分の平静を維持できないのであろう。…私はもちろん、内向的な秀才崩れ(あくまで「崩れ」だ。秀才と名乗れるほどの努力をしていないから)である。同じ道を究めようとした同士だからこそ、羨望と嫉妬、愛情と憎悪、敬遠と執着、あらゆるアンビバレントな感情を抱いてしまうのである。

 サリエリも天才だった。…モーツアルトが現れるまでは。彼は天才の素質があったからこそ若きモーツアルトの天才性に気づいたし、それを怖れもしたのだろう。サリエリが天才でなくなってしまったのは、モーツアルトを認めることで、「自分が天才ではない」という想念が取り憑いてしまったからだ。人は自分を盲目的に信じることができないとき、不安に陥り、人と比較し、ねたみ、内向するのだ。そうしたとき、人に宿る天才性は息を潜めてしまう。

 どんなにうだつが上がらなくても、貧しくても、病気でも、モーツアルトはいつも幸福そうだった。自分の能力を信じていたし、それを素直に誇りにしていた。自分に宿る能力が天才の条件だと思い込むことができていたし、その条件において、やはり彼は天才肌でもあった。

 正直なところ、「自分が天才だ」と盲目的に信じることができる人がうらやましい…たとえ根拠のない自信でも。盲目的に信じている人は、たいてい本番に強いタイプである。…もちろん私はいつも不安だし、本番にも弱い。

 あと、間違ってはいけないのは「天才肌」=「天才」ではないことだろう。どんなに自分に過剰なほどの自信があっても、やはり天才であるケースなどほんの一握り、どころかひとつまみほどなのである。…いや、それでも、やはり過剰に自信があるほうがいいかもしれない。たとえ周囲に不快感を与えても、自分はいつだって幸福でいられるから。

 なんだか、皮肉めいてきてしまった部分もあったが、とにかく、とにかく、言いたいのは。

 世のすべてのアマデウスに賞賛を。
 世のすべてのサリエリに友情を。そして、深い、愛情を。
 

 
 先週引いた風邪を引きずってしまい、まだ完全には治らない。
 紺屋の白袴、といったところか(だったら素直に医者の不養生とか書けよってね)。
 なにぶん新人研修中なので、気疲れこそするだろうが、体力的にはまさか風邪をひくとは思っていなかった。油断していた。

 おそらく、あの時、外来で診た方の「上気道炎」が発端だったのだろう…。すべての症状が一致する。

 さて、風邪をひいたら何よりも早めの休養、これが必須といえる。無理をすればしたほど、2乗に比例するかのごとく、悪化し治りにくい。その際、欠かせないのが抗生剤でも感冒薬でもなく、「水分補給」だ。

 よく「点滴打ってくれ」と要求する人がいるが、水のめるなら飲んだほうがいい。どうせなら味がついているほうが飲みやすかろうから、そんなときにはポカリスウェットかしらん。このポカリスウェットはまさに点滴の成分まんまである(多少含まれる電解質や糖質の量に違いはあるが)。何しろ輸液製剤の御三家の筆頭とも言われる大塚製薬のドリンクですよ?だったら針をさす痛みに耐え、ベッド上で1時間近くぼんやりしているよりも、ごくごくいったらいいではないか。

 おっと、熱が出ているなら解熱剤とかに手を出さず、まずはクーリングを試みてほしい。ひえぴたシートとやらでおでこを冷やすだけじゃ芸が無いし、じつはそんなに効果がない。まず氷枕で頭部のクーリング。さらに冷やすなら動脈が表在しているところだ…つまりね、脈打つところ。わきの下、太ももの付け根。太ももの付け根にひえぴたシートをはると結構いける。あと、個人的にお勧めなのはわきの下にハンカチに包んだ「強いぞパピコ」をはさんで寝ることだ。パピコはコンビニでとっさに手に入るし、すでに凍っているし、大きさも手ごろ、溶けてもまた凍結できるし後で食べる楽しみもあるし。
 さあ、この豪華4点クーリングと、充分な補液(水分補給)で、一晩でかなり楽になるはず。
 …それでも熱が下がらなかったら?…そりゃすぐに病院に行ってね。危険な原因で、状態が悪くなってしまう前に、早く専門家にまかせましょ。
 このような26歳男性は、近年、そうそういないとは思う。いたら「キモイ」と言われること間違いなしでしょうねえ。

 目出度い目出度い、と主人公は言うが、読んでいて嘲笑と憐憫とちょっとした切なさの向こうに、わずかな、わずかな共感を抱いてしまうのを禁じ得ない。さあ、これのどこが「目出度い」のか?

 この「お目出度き人」」が刊行された1911年は明治の末年であり、日露戦争後の不景気の中、文壇の巨匠たちは軒並み暗い感じだった。石川啄木は病気だし、夏目漱石は不機嫌のあまり博士号を突き返す始末だった。そんな中で、この目出度さは、いや、明るさはかなり新鮮だったろう。

 要はストーカーの話である。26歳独身男性はインテリの香りを漂わせながらも唐突に「自分は女に餓えている」と熱く語りだす。どうやら少し前にあこがれの女性に振られたようだ。失恋の痛手が和らいできた頃、近所のぴちぴちの女学生「鶴」のことが俄然気になってしまうのだ。まともに話したことも無いというのに、主人公の妄想は膨らみに膨らみ、早い段階で彼女と結婚することが自分の、また彼女にとっても幸福なことだと「確信」するに至ってしまうのである。

 この26歳独身童貞男性は、自分の中で「恋」が確定した後、結婚の準備として両親を説得し、仲立ちする人を頼み、鶴にあうために張り込みをし、あまりに女への欲求が高まるとあえて勉強して性欲を昇華させようと試みたり、…っていうか、まず
、鶴の気持ちを確認したら?

 結局、鶴の親を通しての求婚はあっさりと、しかも何度か断られる。その度に彼はこうして自らを慰め、元気づけるのだ。
「自分は勇士である!」と言い聞かせて。
…もう、かわいさすら感じてくるではないか。
 彼は断られて、あきらめることが男らしさなのか、あきらめないことが男らしさなのか、決めかねている。そして「鶴の本当の心がみたい」と願う。
かれは結婚する相手が自分のことを愛してくれていなければ意味が無いことはわかっている。でも、同情でもいいから愛情を向けてほしいとも願ってしまう。
 で、うだうだとそこらへんの悩みを日記に書き連ね、ひとたび寝ようとするのだが、興奮して眠れず、再び起きて今度は泣きながら新体詩を書いてしまうのである。そのタイトル、「目出度し」。

 …我あまりに目出度し
 目出度き故に他人と自分を苦しめるほど
 目出度し

 彼は鶴の学校をのぞいたり、彼女の成績を気にしたりと、彼女を修飾するものを探索するが、一年も彼女に直接あうことは無かった。つねに彼の中で「鶴」は妻の、恋人の、家族の、恋そのもののイメージの結晶であり、イデアであった。「鶴という他者」を受け入れることは無かった。彼にとって鶴は「鶴という形をもって表現される自分自身のある側面」でしかなかった。

 「他者」という意識なくして、恋は成就しても継続できない。他者を自己の分身として扱うことで幸福を得られる期間は続かないものである。彼はその短いはずの幸福期間を、己の妄想力によって必死に延長していたのである。

 彼はその行為が無益なもので、おそらく自分が本当に望んでいる結果にはならないことも気づいていたようだし、周囲の人に迷惑をかけかねない、ひいては「鶴」自身も気持ち悪さにひいてしまいかねない、ということは十分想像できていたのだ。しかし、彼は妄想に妄想を重ねるよりほか無かったのである。
 涙がこぼれるような、「お目出度き人」だ。

 彼は久しぶりに鶴に会えて、あまりに嬉しくて、麻布の友達に「鶴に会ったよ!」と報告する。…切ない。このときこの友人は「そうかい、そりゃよかったね」と答える。このときの友人の表情が目に浮かぶようだ。おそらく私も同じ表情で、同じようにしか返答できないのだろう。哀れみと同時に、心からの同情と愛情が湧いてきてしまう。

 結局、鶴はさわやか系スポーツマン風工学士とあっさり結婚するのである。明らかにこの26歳文系独身男性とは正反対のイメージを持つ男性だ。さあ、こんなときわれらがお目出度き人はどうするか…?
 
 本当は自分と結婚したかったのだが、両親やらの強いすすめで気の進まない結婚をしたのであって、むしろ哀れみすら感じるし、彼女の運命が心配になってしまう、などと言い出す。
 そんな思い込みのまま1ヶ月、彼女にこの思い込みは正しいのかを聞きただしたくもなりつつ、彼はこの発言で締めくくる。

「…しかし鶴が『わたしは一度もあなたのことを思ったことはありません』と自ら言おうとも、自分はそれは口だけだ。少なくとも鶴の意識だけだと思うにちがいない。」

 見事!これでこそお目出度き人である。だからこそ長生きできたのかもしれない。苦悩しない人には深みがでないけれど、お目出度き人でないとつらい時代に生きていけないかもしれないね。
 …でも、鶴はやはり、この人と結婚しなくて大正解だったと…言わざるを得ないのが、やはりかなしいところよね、お目出度き人。

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