南アフリカの奥地で秘密任務遂行中に重傷を負い、記憶喪失に陥った特殊工作員ジャッキー。彼を助けた現地の村人たちから「フー・アム・アイ」と名付けられた彼は、本当の自分を知る手掛かりを求めて、オランダへと向かうのだが、彼の記憶をめぐって国際的な陰謀がうごめいていく…。


 山本未来そしてケインコスギ(絶対勝ちます!)まで出演していますが。
 記憶を失っても、体のキレは変わらず。ジャッキーならではの小道具やそこにある設備を自由自在に利用してのアクションは、単にパワー系アクション俳優が真似できない、ジャッキーならではの境地というもの。ロケの規模は世界的だけど、ジャッキーらしさは失わないといったところでしょうか?
 
 そしてわたし、こういう映画でも泣けるんです。酔拳?でも泣きますが、この映画ではやはり、ビルのてっぺんかなんかでどーしても記憶の戻らないジャッキーが「Who am Iー!!」って叫ぶところなんて、なんだかもうジャッキーがかわいそうでかわいそうで泣けてきます。
 決して名作の中にはランクインされることがないんだろうけれど、ジャッキーが国際化していく過程として、はずせない作品かと思いますが。
 なんだかかなりの初期作品集とのことで、絵柄が二転三転は当たり前の様。でも嫌いじゃない、いい感じ。
 
 読みきりばかりが全6話なのだが、「ちょっといい話」に「いい感じのオチ」がうまい具合につく。たぶんそれはその後の作品にも影響していると思うのだけど。ちょっといい話は多いけどハッピーエンドなストーリーは皆無といっていいほどで、普通に後味が悪かったり、何らかのしこりが残っていたり、まあとにかくすっきりしないのだけど、それなりに彼ら(登場人物たち?)のなかで解決はついた、ひと段落ついたような・・・
 そういうものなんだろうか、人生って。どんなイベントが、ドラマがあっても終わらないし、容易にいい方向へなんて向かわないけど、それなりになんとかすれば何とかなり、逆転サヨナラとは言わないけれど、明日につながるいい試合の連続みたいな。なーんて、私らしくもないことでお茶を濁してみる。ネタバレしないようにオムニバスを語るのはわりと大変で、チト面倒臭い。
 
 突っ込みがさえるマリー(居候・助手)、なぜか強いがちょっと天然なクラレンス(執事)そして一見頭脳派、しかし武闘派の犬神ゲル(所長)の破天荒なキャラが奔走する世界は愉快な気持ちになること間違いなし。


 近頃兎に角忙しくて、ノルマも多くて、気持ちにゆとりがなくなりがちなんだけれど、そんなときにはこんな破天荒な漫画なんかを読むのが手ごろな気分転換なんじゃない?というわけで、近くのコンビニで衝動買いです。
 
『ラッシュアワー』でハリウッド進出を果たした後の、ジャッキー初の恋愛アクション・コメディー。監督ビンセント・コク、共演は今やトップ女優の1人であるスー・チーや、永遠の色男トニー・レオンという異色の組み合わせで、ジャッキー映画の新境地を見事に切り開いている。


 「確かに彼はすばらしいアクションを持っているよ。でもアクション俳優であるジャッキーには、恋愛なんて演じられないのさ」

 と、本当にハリウッドスターあるいはその関係者、あるいはデーブ・スペクターあたりに言われたかどうかは定かではないが、わたし的にはジャッキー渾身の一作であると同時に、ジャッキーの魅力を余すところなく注がれているといっても過言ではない。(と思っている)

 ジャッキーがもともと持ち合わせているものはそのアクションの華麗さだけではない、コミカルさ(小道具の使い方含め)ももちろんだが、主人公はたいてい一度は敵キャラによって挫折を味わされ、それをラストに向けて克服していくものであるが、この『ゴージャス』については最初からラブコメモードである。
 しかも、はじめのジャッキーが、いきなり向かうところ敵なしの拳法家&ヒルズ族なみのヤンエグという人物設定なのも意外性充分だ。
 そんなジャッキーがどんな恋に落ち、どんな恋の駆け引きをして、または挫折して、そうして彼が何を選んで強くなり、何かを手にしていくか、そこら辺がみどころかと思う。
 そしてそれをとりまくすべてのキャラ(敵キャラも!)が実はいい人、というのもこの映画が安心するところだろう。
 っていうか、この映画見るたびに、トニー・レオン見たいなオカマの親友がほしくなるのです。
 
 その一見かっこ悪いかもしれないかっこよさ(基本的にわたしのツボであるが)、それがジャッキーの基本的魅力であり、そんな彼が恋に落ちて、かつアクションも見せてくれるのだから、こんなにお得な映画はないじゃないか、と思うんですけど、どうですかねー。
 
 あと3日で、わたしの友人の誕生日であると同時に、「和菓子の日」がやってくる。
 そんなわけで、日曜日は久しぶりに時間を作って、親と過ごしてみた。そのときに両親が持参したのが、この笹団子である。ドラマのワンシーンのようにこんなものを抱えて(箱に入ってはいるけど)現れたものだから、ごめんなさい、少し笑ってしまいました。

 これでもか!というほどに蓬の入った餅に、甘さ控えめの餡、笹にくるんで蒸しあげたからこその良い香り・・・懐かしや、わが故郷・・・もう1年以上、その地を踏んではいないけれど。

 仕事先に持って行ったのだが、思いのほか召し上がった方々の反応は非常によく、わたし自身もちょっといい気分になったのでした。

 
 2ヶ月ほど前、「書こう書こう」と思っていて、忙しさにかまけてついつい置き去りになっていたのが、この桜ネタだ。もはや季節は入梅で、桜とは程遠くなってしまったけれども。

 さて、わたしのすむ地域には昔、地方の豪族の古墳であった遺跡に、桜の木がたっぷりと育っており、花見会場として名を馳せている古墳跡がある。
 そのちいさな山の中腹にはなぜだか霊園があり、夜桜でも見に行こうものなら、数々の墓石がヘッドライトを反射して、そら寒いような、むしろ美しいような気にすらなってくる。
 桜の花をライトアップするのは薄暗い雪洞で、正直、足元すらおぼつかない薄暗さである。その微妙な明るさは、むしろ夜の暗さを際立たせる意味しか無いかのようである。
 なだらかな丘は桜のトンネルとなっており、手の届くところまで枝を張り出した桜から、むっとするようなでも確かに桜の香りが鼻腔を満たしてくる。
 そうして、桜のトンネルが終わり、丘の頂上(おそらくそれは円墳の頂上だ)へくると、突然眼下におよそ270度、わたしのすむ街の夜景が一望されるのである。

 そうしてわたしはいつも、この山に訪れるたび、「桜の森の満開の下」を思い出す。むせ返るようなほど覆いかぶさる桜、その向こうの闇、その桜の下の死体(それは豪族の死体でもあり、無数の霊園に眠る魂でもあろうと思うのだが)、このある程度理想的な舞台で、誰か、否わたし自身が狂ってしまうことはなかろうかと、狂気への期待と不安に少しばかり胸を躍らせて、桜のトンネルの下を潜り抜けるのだが、残念ながら・幸いながら、いまだにそのような現場には遭遇できないでいる。

 今年は大変忙しく、その古墳跡の桜を見たのはほんの小1時間ほどで、しかも前日から40時間ほど連続で働いたあとで、強い疲労感に蝕まれていた。
 そうして視たそれはおりしも散る間際、持てる限りの力で満開となっていた櫻花であった。低気圧が近づいているせいか、空気は重く、花弁をしっとりと濡らしていた。地面にはすでに、一足先に散った花弁が覆っており、踏みしめるたびにきゅう、きゅう、と鳴くようである。その場に蹲りたくなったが、止めておいた。わたしはまだ狂気に委ねるわけにはいかないからだ。

 丘をくだり見上げると、その花を戴いた円墳は周囲の民家や量販店とはあまりに不釣合いだった。あれはやはり日常の場ではない。

 いまは、ひっそりとしているけれども。
 先日、本当にごく久しぶりに外に出かける機会があって、1時間ほど近くのWAVEにいき、なんだかとても消費に身を委ねたくなって衝動買いしたのがこの1枚。
 ゲイシャガールズのときに「僕は坂本龍一の弟子ですから」なんていってたのは、もうどのくらい前になることか。
 噂によると、白で統一された自宅に住んでいて、その家はどうやら意外とわたしの住む県内にあるとかないとか。

 いま、いろんな種類の音楽があって、確かにJazz.やらBossaやらお洒落さんたちご愛用の音楽も素敵だし、好きなんだけど、こういうピコピコした感じの音楽はやっぱり好きなんです。とにかく、久しぶりのアルバムに感謝。
 あの島田荘司が褒めているんだもの、という、如何にも安易かつ受動的な理由で手にした一冊ではあったが、なかなかどうして、その内容たるや、系統だって読みたくなるような内容だった。

 分類としては「叙述ミステリ」となるだろう。さらに言葉遊びとして「倒錯」「盗作」が絡み合うのである。
 それに叙述に倒錯が付加されると、なんだか狂気がそこにある感じがする。狂気がなければ、叙述で倒錯する必要なんてないからだろう。その狂気は、なんだか日本的な湿度を帯びていて、欧米ホラーに対する日本(アジア)ホラーの特徴というか、そういうじめっとした、「ハラハラ・ドキドキ」よりは「おどろおどろ」という感じの、そういう印象をじっくり読者に与えるあたり、「ミステリなんて単純だよ、犯人あてでしょ」みたいなライトミステリに食傷気味の人にはぜひとも読んでいただきたい。

 ね、こんな風にだらだら書くと、このちょっとした叙述すら倒錯しているように見えません?
 キミ(・ライコネン)が好きやねん・・・

 今回のモナコGPは、ライコネンが独走であったと同時に、スターウォーズがある意味大活躍で、ピットインごとに帝国の偉大な力を見せ付けていただきました。あのマシンの後方に吹き上げる黒煙はまさにフォースのダークサイド。

 仕事中だったため、ダイジェスト的にしか鑑賞できなかったけど、楽しませていただきました。
 でも、本当に疲れているみたい、つまんないことしかいえないの。
 天才ってこういう感じ?
 
 以前、同期に貸してほしいってお願いしてたのだが、それきりお互いに忘れて随分経っていた。そしたら、最近、もって来てくれた。

 音楽をゆっくり聴くことすらままならない、最近の日常。
 自分のためだけの時間が無いことが、やはりとても辛いのです、根性がないから。
 
 なれるものならなりたかった、天才に。
 でもなれない、なれなかった私は、必死で今を走るしかないのだと、言い聞かせながら、今日も塩酸ファモチジンを口腔内で溶かし、PC作業をしながら陽水という天才に傾倒した、才能あふれる人々の音楽を聴くのです。
幻の傑作コミック、ついに復刊!
映像創作集団STUDIO4℃の最新新化形アニメーション映画「MIND GAM E」の原作コミックス。ポジティブな疾走感、トリッピーなイマジネーション、そし て強烈なメッセージ性。カルトな人気を博しながら長らく幻と化していたロビン西の 名作コミック奇跡の復刻!単行本3巻分を一冊に凝縮した完全版仕様で再登場


 逸脱というか、離脱というか、そういう空中浮揚的なもの。
 そういう「カルト」なものはいつだって一定の人気があって、ときに大流行したりする。

 なんというか、この混沌としていて疾走感のある状態を描くのに、やはり「関西」というなんでも取り込んで包括するお国柄というのか、そういう包容力の対極で「関西」という枠を固持し続けることができるパワーを持っているということ、そのDoubleEdgeさがこのカルトコミックで「関西」が舞台となっている理由かもしれない。
 浮世離れした、ありえない設定・ストーリー展開が、それなりにコミックの中で「ありえる」ことになっている理由として、舞台が「関西」である、ということだ。

 それで、何だというの?

 離脱なんて解脱なんてできない。
 わたしは日常に依存しているし、日常に未練があるし。
 そうしてトリップなカルトマンガを読むのだわ。

 *忙しいのでこの辺で。
 そして、ipodに溺れた私の次なる浪費はこれ。

 こういうのに詳しい後輩から勧められたのだが、実際使っていると、上司もまったく同じモノを持っており、しかも同じipodに接続しておられた。
 ipodにBANG&OLUFSENはFirstChoiceとなるのだろうか?

 別に、ipodに備え付けのヘッドフォンに不満があったわけではなく、むしろ、想像していた使用感よりはるかに音質は優れており、むやみに感動したのではあるが・・・要は浪費である。それに尽きる。
 しかし、浪費とはいえ無駄ではなく、やや高音域がシャカシャカするなーという感じもあるが、よりフィット感を重視したための変幻自在なギミックたちはオブジェとしてもわたしを魅了するし、それが運ぶ音の透明な感じが、わたしを癒してくれているのは間違いない。
 「Appleを選ぶのは、『ブランド』を選ぶのと同じ感じですよ」
 
 と、以前、年上だけど後輩な人が言った。彼は、バブル期に大学・就職、友人同士で起業と、80-90年代を背負いきった人である。
 さて、学業+仕事の都合でPCを買おうと思い立った際、彼にAppleを勧められ、その後私はMac人となったわけだ。初めて自分で購入したのはPowerBookG3だったし、今のPCはPowerbookG4・12inchだ。
 
 そのころ、時代はWindowsを中心に動いていて、Macなんて、「なんだか全体的に素朴ででかい」「シンプルなものしかついてない割りに値段が高い」と、周囲からは鼻で笑われていたものだ。でも、キュートなアイコンとか、その単純な操作性、たまに機嫌を損ねるところなんかが次第にかわいらしく思えてきて、いいようのない愛着がわいてくるのである。

「老舗で、シンプルで、高くて、一見コストパフォーマンスはどうなの?って感じだけど、使ってみると愛着が湧いて手放せない、まさに不『ブランド物』って感じでしょ?」

と、バブル君は言うのである。確かに、と納得する点もあるわけだ。
 
 しかし、次第にAppleは進化し、非常に一般受けする製品を次々と市場に送り込むようになった。ipodブームもまさにその一つと言えるだろう。

 それでついに私はipodを手に入れた。
 使い始めて、しばらく経つ。

 初めて使うipodは、思いのほかすばらしくて、普段は不精な私も、少しずつながらインストールする楽曲を増やして行ったし、英語論文など読んだり、書類整理をしたりするときも、こいつがいないと気分が乗らない状態である。
 
 以前からMacユーザーだった私としては(とは言うものの、コアなファンではないのだが)、ipod人気は誇らしいと同時に、少し寂しい感じもするのだ。そういう気分にさせる人懐こさみたいなもの、そういうものがAppleのブランド性なのかもしれない。
 
 「物語」において、わたしがなぜか苛々するポイントを敢えて規定するならば、それは「愚かなヒーロー/ヒロイン」に対してであろう。そしてそれが特に「ヒロイン」に対して向かいがちなのは、何のことは無い、わたしが「ヒロインではありえない女」だからである。それは明確だ。
 
 ヒーロー/ヒロインが持つ「愚かさ」とは?

 わたしは「禁忌に触れること」「逸脱すること」を恐れてきた。
 今も恐れている、変わらない。小心者でヘタレであるし、運を無駄遣いできるような強運の持ち主ではないからだ。

本書,「楽園」では常に主人公たちは「禁忌に触れる」のだ。
「性」というタブーを主人公たちは常に犯し、いつか破綻しそうな危うい日常を生きている。そしてそれが「楽園」なのだという。
 つまり「楽園」は、そういう危険を冒したさきにのみ存在する甘美なものの象徴ということなのかとも思う。

 「こっちへくるな」といわれて「え、なあに?」ととぼけてふらふら近づき、案の定敵に捕らわれ人質として主人公に迷惑をかけまくるヒロインのイメージは、ストーリーの常套句のようだ。

 そうして、そういえばはじめに楽園を追われた人も、「禁忌に触れた」のだったな、と思う。追われて初めて、「追われる恐怖」が立ち現れ、その恐怖があってはじめて「禁忌に触れること」=「甘美な楽園」という思想を生んでいるのかもしれない。
 でもやはりわたしは禁忌を犯せそうにないのである。

冬遊び

2005年3月7日 スポーツ
 気がつけば、いつの間にかひな祭りも終わっているというのに、先日、ほんとに1000日ほどぶりにスキーをしなくてはならない羽目になった。
 おそらく、スキーというものはやればやるほどうまくなるのだろうとも思うし、一番上達に必要なものは、根性と恐怖心の克服であろうと思うのだが、ごめんね、どちらも欠けているの。

 あまりに久しぶりにスキーなんてするものだから、「はじめはちょっと初心者ゲレンデでだらだら滑ろうかしら」と思っていたのもつかの間、連れて行かれたのはいきなりの急斜面。必死の思いでついていったら,「俺たちについて来れるなんて,上出来だよ」と言われる始末。
 しかも,すでに筋肉痛だというのに,翌日には大回転風のタイムトライアル。

 でもさすがになれてくるのか,無駄な筋肉を使わなくなってくると,とっても楽しく雪遊びができるのでした。滑り始めはあんなにいやだったのに,もう,またいきたくなっている。多分,今シーズンはもう難しいのだろうけど。
 コリン・ウィルソンの代表作をひとつあげよといわれれば,数あれど,「賢者の石」と答えるべきところであろうが,荒俣氏の場合はこのレックス・ムンディの前に,「帝都物語」という大シリーズが立ちはだかっている。

 どうもこのオカルトだの古代遺跡だの,予言だのUFOだのいうと,昨今は「いかがわしい」目線を投げかけられている。
 荒俣氏はこのいかがわしいオカルトを操るようでいて,トリビアの泉ではほとんど語らない採点員としていつもタモリの対極点を勤めておられる。とてもかつての慶応ボーイとは思えぬ威風堂々たる姿勢である。

 どうやら,最近は「風水ブーム」のようだ。だが,荒俣氏が興味を注ぐ風水は本物の風水だ。
 以前アグネス・チャンがTVで「風水師の意見によっては夫婦の寝室も別にする年もあります」という,長年日本に住んでいる割にはやはりあまり上手ではない日本語でそうコメントしていたが,アグネスにそこまでさせるのが「本物の風水」ってモンである。

 おっと,話がついつい風水にそれてしまった。

 レックス・ムンディは「世界の王」の意である。それは善も悪も混沌のうちに含んだ概念だ。レンヌ・ル・シャトーの遺跡をめぐるテンプル騎士団・聖杯伝説・レックスムンディが,荒俣流にどのように味付けされているかが見所。
 文庫化を待っていたためか,どうも少し古い危機を扱っているようだが,本質はそこじゃない,考古学者に,歴史家に,そして真の好事家になりたかったころの気持ちをどこまでこの本を読むことで再燃できるか,それによると思うのだけれど。
 冬季限定モノは数多くあれど、冬になると思い出したように食べたくなる。
 もともと「スープ」好きではあるけれど、この大人っぽさとか充実感は別格なんだなあ。以前はそれでもよく自分で作っていたけれど、最近は忙しくて、すっかりご無沙汰です。じっくりたまねぎを炒めたいものです。

 ファミレスやインスタント含め、いろんなところで注文を試みるのだけど、それぞれ味が違うのも興味が尽きない理由のひとつかもしれない。

 いま、外は雪。

 どうやら一日中降り続いていたみたい。仕事していて全く休憩すらなかったので気づかなかった。
 早くおうちへ帰って、久しぶりに作ろうと思います。
 これって、絶版になってたのね。
 アニメ化もしていたと思うけど。

 ブラックジャックに憧れて医者を志す人は、どうやら今でも結構多いようだけど、MASTERキートンを読んで「考古学者になりたい!」と思った人も、きっと多いと思う。まさかオプになりたいという人は少なそうですけど。

 浦沢直樹の代表作のひとつと思っていたのだけど、違うのかな。私もそうだけど、私の周囲にもファンは多かったのに。確かこれには「葛飾北星」だったか、原作者が存在したはずだが、短編として優秀なお話が多いと記憶してます。

 復刊してほしいなあ。
 もうすぐ、私の大工さん的初期修行が、終わろうとしている。
 それは専門的な人からすれば非常に稚拙な手技の連続だったかもしれないけれど、先週くらいから「うちの科にどうよ」なんて声をかけてもらえるようになり、嬉しい。糸結びも褒められて嬉しい。ルンバールも調子がいいし。
 ただ、腕とか足とか、持ち上げたり抑えたり、力仕事で大変。なんだか全身が筋肉痛。
 でも、楽しい楽しい、そしてとってもやりがいのある、身体の大工さんでした。おわっってしまうのが残念。
 うわー、参りましたよ、京極どの。京極堂シリーズが上手投げとか技のキレがうりならば、これは押し出しとか突き出しとかそういうパワー系でした。アンコ型。
 そしてなんとなく、断筆前の筒井康隆の短編集をみている感覚でした。「農協月へ行く」とか「笑うな」とか。嫌いじゃないです、むしろ好きです。

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