07月17日付 日刊スポーツ

当時、私は7Fにいたので、とてもぐらぐら揺れていた。ちょっとかがみ込んで作業している時だったので、「ああ、ついにわたしもめまいに」なんて思った。続いて、きっとだれかが強い力でテーブルを揺らしているに違いない、と思い、「ちょっとー」と声も出かかったが、まわりの人たちがきゃあきゃあ騒ぎだしたのを見て、「…地震か」と納得。
幸い震度4の地域だったため、大きな損害はなくすごせたけれど。

でも、震度5−6の地元が心配です。
 別に、普段はインスタントでも構わない、けれども、コーヒーメーカーで作った珈琲を職場でいただいていると、時々、無性に時間のあったあの頃、ミルで引いて、ドリップして、そういう贅沢な時間に戻りたくなる。
 知人から、コーヒー豆を分けていただいたので、ずっと「明日の朝飲もう!」と思いながら1ヶ月が経過していた。
 正直、朝にお湯を湧かすことからひと手間かかるし。
 あと、旅行に行ったときに大量の中国茶を買ってきてしまったので、どんどん飲まなきゃ、でもある。
 そうだ、電気ケトルを買ってもいいんじゃないだろうか。働いてるし、自分のために。
 そこからいろいろ検索して、評判のよさそうな、でもややお値段高めなこのケトルを買ってみた。
 
 こんなにお湯が湧くのが早いとは!シンプルだし、出しっ放しでも違和感無し。適度に保温されるし、1回で1リットルちょっとは湧かせるし。
 手入れも楽で、プラスチックやガラス製のものよりジャカジャカ洗えるのもよかった。
 とりあえず、今朝、珈琲をドリップしてみたけど、どうかな、明日もできるかな、それとも1日坊主になってしまうんだろうか。でもきっと一歩は前進したと思う、オサレな生活ってやつに。
 いま、どこもかしこも紅葉に至ろうとしている。
 今日もひと山超えて、秘湯系温泉を3つくらい超えて、外勤に言ってきたけれども、前を行くトラックの煙やら、後ろからあおってくるアルファロメオにおびえながらも、料金所を超えてふと、前方に広く視野をとると、なんてこと!
 まんが日本昔話のようなおやまが三つ、それぞれに少しずつ色づいて、雑多な感じがよかった。雑多な感じは時にとても心地よい。冬の雷鳥もかわいいけれど、夏も素敵なように。

 朝も早いし夜も遅い生活だけれど、すっかり寒くなった。
 もう洗った髪をそのままにしてはおけない。
 質実剛健、といえば、コレに勝るもの無し?と思っている。
 チタンのフレーム、秒まで刻まれた文字盤と日付け機能、そしてソーラーテック、いかにもドイツらしい、質実剛健っぷり。

 あまりにメカメカしいので、こどもたちには人気があった。
 今でも、SKAGENとほぼ交互に身につけている。
 久しぶりに日記らしいことをしてみんとてするなり。

 思い返せばわたしはずっと以前、中学生の頃、腕時計が大好きで、四六時中身につけていた。
 しかし、高校生になった頃、坂本龍一が雑誌(たぶん日本版WIREDだったかと記憶している)かなんかの質問コーナーで、腕時計について、「身につけない。重いし何か吸い取られそうな気がするから(笑)」なんて言っていたものだから、わたしはその日から腕時計をやめてみた。
 久しぶりにある程度の重量から開放された左腕はとても寂しくて、しばらくの間、ときおりそこにまだ時計があるかのように文字盤を覗き込む仕草をしてはひとり赤面してさりげなく手を下ろしていた。おそらく、全く不自然な動きではあっただろう。

 その後、携帯電話を持つことで、さらに腕時計の必要性は低下し、わたしの左手はいつも空白だった。その軽さにもなれてきた頃、仕事の都合上、腕時計がわりと必要になってしまったのだ。
 しかも、かわいらしいオサレな品ではなく、なるべく質実剛健なものが必要である。だが、どうしても、G−SHOCKは避けたかった。
 そうして現在、もう一個と交互につけている時計がコレである。生活防水、シンプル、なにより薄い。
 文字盤の薄さはおよそ6mm。
 つけていることを忘れそうになるような薄さ、幼いあこがれから左腕をフリーにしたわたしにも、邪魔になることのない、デンマーク生まれのかわいいやつなのである。
 

2006年3月13日 地上の日常
 「ネコ好きっていうひとは大抵、『…ねこがね、わたしによってくるの』っていうよね」

 と、親友が言う。そこだ、それだ、とわたしは思う。ねこは好きだけど、ねこ好きの人に対してわたしが思わず身構えてしまうのは、その受身でいつつも高みから見下ろすような発言にあるのかもしれない。そんな気はないの、とねこ好きは言う。でも、無自覚だから余計にわたしは身構える。

 貪欲でなくたって、幸福は自然と近づいてくるものよ、追いかけるから幸福は逃げていくの、と、そんなふうにおしゃれに澄ましている。その澄ました横顔は、恋人だってお金だってそうなんだから、とでも言いたげである。…そこにわたしが感じて身構えてしまうのは、そんな鷹揚さを持たざるものの僻みなのかもしれない。

 ねこの仕草はいつも、邪険に扱うとその人が非難されるくらい愛らしい。その追い込むような愛らしさを回りに振りまいて、「貪欲ではないけれど、自然に寄ってくるものよ」という姿勢が、わたしを緊張させる。「好きだ、嫌いだ、ということにいろいろ理屈をつけるから難しくなるのよ」と、テラス席の椅子の上で「な〜ご」 

 しかし勉強会ですっかり帰るのが遅くなった明け方に、散歩中のダックスフント2匹が「ふんふん」ってわたしの足元にじゃれ付いて、飼い主のおじさんがいや〜すいませんねえなどと言いつつも「犬は犬好きの人がわかるんですよね〜」と破顔一笑、つまりは、わたしに自然とよってくるのはおしゃれで気まぐれなねこではなくて、不器用でも忠実でやっぱりかわいいわんこなのかもしれないと思うのだった。 
 いや別に、この本持っているわけじゃないっすよ?

 この「タイ古式マッサージ」は、少し前から私の気になる存在ではあった。確か東京在住のペルシャ絨毯商人(トルコ人だったか?)が都内でタイ古式マッサージの店もいくつかやっていて、その理由が「私が今まで受けたマッサージの中で一番効いたから」というものだったわけだ。マッサージは国境を越える

 そうして先日、親友とスーパー銭湯に行ったところ、
『タイ古式マッサージはじめました』

と、なんだか初夏の冷やし中華みたいなことになっているではないか!基本的にこういうのはノリだ、と思っているフシもあったので、40分体験コース、お願いしました。

 NHK体操のお兄さん風の若い兄さんに部屋に案内されると、「申し訳ございません。本日、こちら天井のライトが切れておりまして、間接照明のみのムーディーな状態になっております」とのこと。何だそれ。あああこれでもうわたしの笑いモードスイッチが入ってしまいましたよ。
 マッサージというか、ひとまかせのストレッチングで、他力本願希望の私にとってはなかなか気楽なものだったのだが、この本の表紙の真ん中あたりのえびぞり的な姿勢になるときに、このお兄さんは
『ハイ、キメまーす♪』
 
 え、あなた今なに言いました?と思うまもなく、ぐはあ、とばかりにえびぞりとなり、反論も爆笑も不能となった。確かにポーズをキメるということなんだろうが、その掛け声は何なの?この後この名ゼリフ「ハイ、キメまーす♪」を少なくとも5回以上聞くことになろうとは…。
 お兄さんは「このマッサージは本場では120分行うのが普通なんですよ」というが、いやいや40分でもなかなかでしたよ。ペルシャ絨毯商人の言うとおり、いや効くわこのマッサージ。ていうかストレッチ。すごく体が軽くなったもの。しかも効果がその後3日は続くし。すばらしい、目覚めちゃったよ、タイ古式マッサージ!
 ああ、また疲れが溜まったら、キメてもらいに行こう、オカマっぽいお兄さん、と思いながら日常に戻るのです。
 キミ(・ライコネン)が好きやねん・・・

 今回のモナコGPは、ライコネンが独走であったと同時に、スターウォーズがある意味大活躍で、ピットインごとに帝国の偉大な力を見せ付けていただきました。あのマシンの後方に吹き上げる黒煙はまさにフォースのダークサイド。

 仕事中だったため、ダイジェスト的にしか鑑賞できなかったけど、楽しませていただきました。
 でも、本当に疲れているみたい、つまんないことしかいえないの。
 そして、ipodに溺れた私の次なる浪費はこれ。

 こういうのに詳しい後輩から勧められたのだが、実際使っていると、上司もまったく同じモノを持っており、しかも同じipodに接続しておられた。
 ipodにBANG&OLUFSENはFirstChoiceとなるのだろうか?

 別に、ipodに備え付けのヘッドフォンに不満があったわけではなく、むしろ、想像していた使用感よりはるかに音質は優れており、むやみに感動したのではあるが・・・要は浪費である。それに尽きる。
 しかし、浪費とはいえ無駄ではなく、やや高音域がシャカシャカするなーという感じもあるが、よりフィット感を重視したための変幻自在なギミックたちはオブジェとしてもわたしを魅了するし、それが運ぶ音の透明な感じが、わたしを癒してくれているのは間違いない。
 「Appleを選ぶのは、『ブランド』を選ぶのと同じ感じですよ」
 
 と、以前、年上だけど後輩な人が言った。彼は、バブル期に大学・就職、友人同士で起業と、80-90年代を背負いきった人である。
 さて、学業+仕事の都合でPCを買おうと思い立った際、彼にAppleを勧められ、その後私はMac人となったわけだ。初めて自分で購入したのはPowerBookG3だったし、今のPCはPowerbookG4・12inchだ。
 
 そのころ、時代はWindowsを中心に動いていて、Macなんて、「なんだか全体的に素朴ででかい」「シンプルなものしかついてない割りに値段が高い」と、周囲からは鼻で笑われていたものだ。でも、キュートなアイコンとか、その単純な操作性、たまに機嫌を損ねるところなんかが次第にかわいらしく思えてきて、いいようのない愛着がわいてくるのである。

「老舗で、シンプルで、高くて、一見コストパフォーマンスはどうなの?って感じだけど、使ってみると愛着が湧いて手放せない、まさに不『ブランド物』って感じでしょ?」

と、バブル君は言うのである。確かに、と納得する点もあるわけだ。
 
 しかし、次第にAppleは進化し、非常に一般受けする製品を次々と市場に送り込むようになった。ipodブームもまさにその一つと言えるだろう。

 それでついに私はipodを手に入れた。
 使い始めて、しばらく経つ。

 初めて使うipodは、思いのほかすばらしくて、普段は不精な私も、少しずつながらインストールする楽曲を増やして行ったし、英語論文など読んだり、書類整理をしたりするときも、こいつがいないと気分が乗らない状態である。
 
 以前からMacユーザーだった私としては(とは言うものの、コアなファンではないのだが)、ipod人気は誇らしいと同時に、少し寂しい感じもするのだ。そういう気分にさせる人懐こさみたいなもの、そういうものがAppleのブランド性なのかもしれない。
 
 先週末からの強行軍がたたったのか、風邪っぽい。
 ひきはじめなら、この葛根湯で十分だよね?
 とても迷っていることがある。
 とても悩んでいる。
 それは、

 ローソン限定、水曜どうでしょうの「どうでしょう本」と「限定DVD」を買うかどうか、ということだ。

 深夜、本当に深夜(2:15より)に再放送され続けている不滅の番組。わたしの友人は、1限の講義に遅刻してくることがあったのだが、その理由は、前日の夜に「どうでしょう」を観ているせいだとわかった。以来、私も観ている。試験前などに精神状態が限界に近づいているときなど、よくなごませてもらった思い出の番組だ。

 さて、表題の「北海道限定芸人」の標語は、いまや伝説の番組、「パパパパパフィー(パの数が正確かどうかは不明)」に、大泉君が出演した際のパフィーの説明である。だから、私のオリジナル表現ではない。ファンの皆様、怒らないでね。
 大泉君は北海道の演劇界ではすでに大御所的存在なのではなかろうかと思われるふしもある。しかし詳細不明。道民じゃないもので。

 どうでしょう、といえば、大泉君もさることながら、「ミスター」も忘れちゃいけない存在感のある出演者である。よく無理やり甘いもの(例・仙台ずんだもち)を食べさせられていたが。ミスターは甘いものが大嫌いだったなあとか、いつも早く帰りたがっていたなあなどと思いだす。

 おそらくここから先はかなりわたしの思い込みの要素が多いとは思うので恐縮であるが、「水曜どうでしょう」および「どうでしょうリターンズ」は同士愛と友情とロマン(←わたしのツボである)にあふれた番組だったと思う。あのグダグダ感も深夜にふさわしかったし、終わらない夢を見続ける、ロードムービー的な感動大作でもあった。
 っていうか、自分たちのやりたいことをおもしろおかしくやっているのだろうけども。

 やっぱり、買っちゃおうかなあ。
 
 
 この人、本気ですねえ。前作ロミオ道行に比べて、芸人という枠にとらわれず、多分この人が昔からやりたかったことをきっちりやり始めた、という印象がありますねえ。

 私が藤井隆を好きになったきっかけは、Mathewが松浦亜弥によせたコメントであった。
「最初はぁ、なんていうのっ?あややとかいうて何なのこの娘はって思ってましたけどっ、もういい、どこまでも本物のアイドルなんだ、って最近は思いますぅ!」
 
 同感。

 また、年末に翌年のカレンダーを紹介する際、初めは普通にハロープロジェクトやらを紹介した上で、
 「でもMathewの一押しはこれっ!東映女優カレンダー!なんと1月は天海ゆうきさん!この方も…中略…、そしてかたせ梨乃さん、いやあ豊満ですよね〜以下略」
 …カレンダーをこんな楽しみ方できるなんて、すばらしいと思います。

 あと、女性を立てるのがうまいですよね。

 付け加えて言えば、津川雅彦氏を「パパァ〜ン」とか呼べちゃうのも、藤井隆がすごいからでしょうか、Mathewのキャラのなせるわざでしょうか?
 さて、少し前にクサマトリックスについて記載したのだが、中途半端な状態になってしまっていた。

 草間弥生はとにかく芸術家なのであろう。
 彼女の作品は日常に潜めない。
 「自分は他の人とは違うんだ」という思いのある人にとっては草間弥生は突き抜けた芸術家に見えるだろうし、「自分は普通の人なんだ」と思っている人あるいは日常に世間になじむためにそう思おうとしている人にとっては異常者に映る。

 日本では異常-正常の境界に線を引こうとする…しかし果たして、そこに境界線は存在するのか。

 その議論はここではやめておきたい。
 彼女の芸術はそのマージナルゾーンを揺さぶるのである。これは芸術か、あるいは狂気か。

 水玉ブラックライトのリビングルームは、やはり一般の住空間ではありえない。日常のリビングという場に彼女の境界例的テイストが加わると、人々は恐怖するのだ、自分の正常を脅かされる気がして。

 草間弥生は異質であり続ける。受諾されようとも拒絶されようとも、やはり異質なのである。
 自身に「異質感」を抱いている人にとって彼女はあこがれの人ではあるが、自身に「普通」という生き方を提唱している人にとっては侵入者である。

 さて私は、というと、異質な領域へと絡めとろうとする草間弥生の「無限の網」を身を掠めるような近さを感じながらも避わして、あくまで境界域に身を潜めるのだ、受諾もせず・拒絶もせずに。
 さて、私が現在住まう街は、どうやら草間弥生の故郷であるらしく、1-2年ほど前に市立美術館を建設していたところ、彼女の巨大なオブジェが工事現場を覆うグレイの覆い布の向こうに見え隠れしていて、一般市民含め、無知な大学生たちは「なんだかキモイ」と言ってはばからなかった。

 そのオブジェは今でもやはり美術館の正面入り口に鎮座ましましていて、それは巨大で、茎の捻じ曲がった、水玉のチューリップである。

 さらに、草間弥生の常設展示もある。

 私は美術に詳しいというわけでもないが、昨年中はなぜだか頻繁にその美術館に通った。
 それは併設されているカフェのケーキと、焼き菓子と、オムライスが美味しいだとか、すぐ近くのアンティーク喫茶のコーヒーと雰囲気が素敵だとか、そういう副次的な目的もさることながら、意外と良い企画展が多いのも理由のひとつであった。それと、そのころはモラトリアムに過ごしていたという事実と。

 森美術館のクサマトリックスにも行った。たまたまそれは夜で、薄ぼんやりと明るい遠景に東京タワーが照らされているのを、展望台から見下ろしながらカフェラテをを飲んだ。…まあそれはいい。
 
 草間弥生にとっての水玉はもはや、持ちネタというか、定番という感じである。「もともとは眼を閉じてもまぶたの裏に繰り返し浮かぶ残像を偏執的に表現したのが水玉や亀甲パターンだった」と、私の大学の精神科講師は語っていた気がする。

 さて、先日もふらりと市立美術館に行った。
 森美術館のクサマトリックスとは大違いの空きっぷりである。
 老夫婦が私の前をゆっくり鑑賞していた。
 老夫婦は「なんだか良く分からないけど、めが回るね」
などといいながら歩みを進める。
 合わせ鏡の中のニョロニョロもどきと私たち。
 水玉+ブラックライトのリビング。
 乾燥パスタのカーペット。
 
 老夫婦は「これが芸術ってものかいね」と会話している。
 私にとってはもはや5-6回目の鑑賞なので、驚きよりは「慣れ」と「笑い」である。
 ブラックライトのリビングルームのいすに腰掛けて、老夫婦を見送りながら、異常事態になじんでゆく私の正常を客観視した、ある日の午後。