ノアの方舟を題材にした、蠅の王みたいな感じだろうか。
 もっとも、当時よっぽど子供向けに書かれたようで、蠅の王とは異なり、明らかな戦闘シーン(?)はない。
 
 原始、大地は満たされていて、生き物はみんな草食動物だった。ノアが船を造る。動物たちが乗り込む。狭い、閉塞的な空間で、限られた娯楽と食事。動物たちは、ノア一家は、なんとか譲り合ってちょっとした問題をクリアしながら洪水の日々をすごす。
 そしておだやかな日常の中に突如現れる黒い滲み、積み重なる澱、拡がる不安、そういったものは一見綺麗な顔をして侵入し、浸食していく。肉食動物たちは「肉食」を思い出していくことになる。
 
 作者、ウォーカーは第1次大戦に軍医として従軍したらしい。その影響だろうか、「人間はもちろん、いきものだって仲良く共存共栄なんてそうそうできないんだよー」とあきらめ半分に訴えているようだ。
 
 なかよし、って努力の持続と日常の満足がないと実現しないのだろう。
 こんなふうに、いつも自分の権利ばかり主張しているようじゃ、まだまだ人間に争いは絶えまい。
 どのくらい読み込んだかといえば、この1巻の一番はじめの内容が「犬ください」から始まったことも覚えている。

 記憶が確かならば、BS漫画夜話で扱われていたと思うのだが、その際に大槻ケンジが「うちには枕が一つしかありません、なので人を雇うことにしました。人は一晩中枕を移動させて働きます。夜中に目が覚めると人が弁当を食べているのをみることがあります」という内容に対して、「これはプロレタリアですよ!」と興奮していたことを思い出す。

 ほかにも出演者が、「かわうそくんを喜ばせようとして若者の真似をする老人」のお話で「かわうそさん、わしらコーラーも飲めるけん」という台詞の「コーラー」が年寄りらしさを細かく現していてすばらしい、と絶賛していた。

 そういえば、かわうそくんの初登場シーンは「ねたみ」と書かれた看板をもって、土手を行く中学生のあとをつけてくる、ではなかっただろうか。

 ともかく、吉田戦車には不思議なオノマトペが多い。くまの吠声は「びわー」だし、何かをつかむときは「みしっ」だ。

 全然関係ないけど、中学生か高校生の頃の国語の問題集のブレイクコーナーみたいなところに、伝染るんです。の漫画が取り上げられていて、「キャンプの醍醐味はやはり丸焼きである。川でつかまえた生きのいい『丸』を焼くのだ。」について、コレとおなじようなネタをつくれ、というお題が出ていたのである。無茶な話しだ。わたしも考えてみたけれど、ガチガチの受験生の頭では思いつかなかった。

*漫画の無いようについては、完全にわたしの記憶のみにて再現されているため、実際のものと異なる場合があります。
”なつ”さんのコメントをみて、また読みたくなり、段ボールから引っ張りだしてみた。
 確か、この本の冒頭の短編に、特殊な災厄の避け方を考案し、実行してしまう、狂気の実業家の話があったはず。

 人形佐七もそうですが、この時代の国内ミステリの雰囲気は割と好きです。鮎川哲也とか。
 自分でも、正直なところ、ちょっと悪趣味なのでは?と思うこともしきりなのだが、わたしはわりとこういう本が好きだ。

 数年前、何かの講演会を聴講しなくてはならなかったとき、演者が問いかけた。「みなさんは性善説ですか、性悪説ですか?」
 わたしは迷うことも無く「性悪説」に手を挙げたのだが、数十人の受講生のうち、手を挙げたのはわたしを入れて2人だけだった。当時の上司とかもふつーに「性善説」に手を挙げていて、素で驚いた。みんな楽観的なんだな、と。

 そもそもそういう分け方がどうか、という点はさておき、どう考えてみても、性善説のように楽観的にはなれないのである。
 そして、社会的に人道的によろしくない猟奇的なことを犯してしまう古今東西の人たちが、何を契機にその悪性を発動させてしまったか、興味がないと言ったら嘘になる。

 とはいえ、実は大層な恐がりなものだから、不当な、意味の無い、救いの無い怪奇については本当に苦手である。できれば怪奇には回避方法があってほしい。たとえば、廃村や廃墟には近づかないとか、吹雪の山荘には宿泊しないとか、3日に一度しか船が来ない島へ行かないとか、謎の招待状に喜んでのこのこと旅支度をしないとか、うまい話には乗らないとか、…たぶんこの調子でわたしなりの怪奇回避方法を実践していれば、きっと怪奇はわたしの頭上で羽ばたかない、きっと死兆星は頭上に瞬かない、と信じたい。
 性悪説はわたしの自己防衛本能であり、悪趣味かもしれないけど恐がりであるという自己矛盾はおそらく解決しないのだろう。
 この間迄は杉浦日向子週間だったのだが、そのあとに来たのが久々の二階堂黎人週間である。
 思春期頃に初読したときには比較的大興奮でその謎に引き込まれていたのだが、改めて今読み返すと、犯人とか謎とかがちょくちょく分かってしまって、嬉しいような寂しいような。

 バラ迷宮、ユリ迷宮、聖アウスラ修道院の惨劇などなどここ2週間ばかり読んでいたわけだが、やはりどうも人狼城の恐怖には手が伸びなかった。いくら何でもあの4部作はつらいだろうと思って。京極シリーズを読み返すのと同じだけの度胸が必要だ。

 もっと時間がほしい。時間が。
 それで、世間様はゴールデンウィークなところ、わたしは杉浦日向子ウィークなのであるが、このひとの漫画が寝る前の瞬間にふさわしいと思うのは、「淡々と」しているからか。

 江戸の日常、なんてわたしには知る術もないが、おそらく、おそらく彼女の漫画はその日常の続きで始まり、日常へ続いて終わるのである。どかんとした爆笑をさそう場面もなければ、そこはかとなく涙あふれる場面もない。
 そこにあるのは「くすり」「にんまり」したくなるのんびりと愉快な場面や、「んー」とちょっぴり神妙な心持ちになってしまうやや切なげな場面である。
 それらはいつも、長屋の立て付けの悪い扉や、湯屋の二階や、人々の行き交う橋の上、下級武士の竹光、遊び人の本田髷、遊女のキセルの羅宇に、縁側の猫に、家庭に一冊・吉原細見に、町娘の袖に、そういうものによって瞬間、切り取られているかのようだ。
 短編が多いのであるが、それはどれも、「主題はこうだッ」という押しはなく、そのラストシーンはいつも続きがありそうななさそうな日常感に溢れている。言いたいことを言い切らない、いっそ言いたいことないわさ、とさらっと言わんばかりの江戸の潔さが、杉浦日向子の漫画全体に広がっているようだ。
 きっと、それが粋なのだと、少しの哀愁を秘めた潔い爽やかさとともに、眠りにつく。
 そうはいっても、誰も信じてくれやしないとは思うが、実際のところわたしは意外と人見知りで、不特定多数との人付き合いは比較的苦手である。

 まあ、そんなわたしがちょっぴり古巣とはいえ、新しい環境で一日平均14時間も過ごすのだから、なんというか、疲れがたまらないわけがない。

 そして、寝る前の20分ほど、引っ越しを繰り返すたびに増殖を実感する本棚のケースから、微妙に分類された文庫本たちをとりだし、読みながら眠りの時を待つのがほぼ日課である。

 (ひさしぶりの更新だけれども、なんだかしっかり日記風の書き出しではないか)

 で、いまは杉浦日向子週間である。
 故人が紡いだ江戸の風景は、なんだか疲労した気持ちをほわーんとさせるように、ちょっといい話とか、ちょっと切ない話とか、その野暮じゃない風味が心地よいのである。
 
 根元的にはわたしも熱血なのだろうが、それでもしかし、熱血を全面に展開して全く恥ずかしくない熱血漢というのに対して、どうしてときにうんざりといらいらとさせられるのだろうか。
 それは、きっと、熱血さを前に出すのは野暮で、クールでいながら実は熱血のほうが粋だからだろう。黒い羽織に緋縮緬が当時とっても粋だったのと同じか。

 さても、現代のわたしは通人にもなれず、粋でもなく、かといって野暮でもなく、そう、幇間のような、えへへ、旦那、今日もいい月でござんすねえ、なんてやってる三枚目の芸達者くらいなんだろうね。
 他者の感情の起伏に振り回されるのは、なんと疲れるのだろう。
 言葉を、誠意を尽くしても「納得できない」と一言言われれば、おしまいになってしまう。コミュニケーションツールとしての言語がそのコミュニケーションを阻害する。

1990年の芥川賞受賞以来、1作ごとに確実に、その独自の世界観を築き上げてきた小川洋子。事故で記憶力を失った老数学者と、彼の世話をすることとなった母子とのふれあいを描いた本書は、そのひとつの到達点ともいえる作品である。


 この本を読んで、泣ける泣けないとかはどちらでもよいだろう。何、結論から言えば、非常に内容が分かりやすい本だ。分かりやすく淡々とストーリーは始まり、受け継がれ、展開部を迎え、分かりやすく切なく結ばれていく。やっぱりたくさんの人に読んでもらって、泣いてもらうには、平易で唐突すぎない展開であるべきなのだろう。スタンダード、何はともあれスタンダード。何をいろいろ言っているの、って、わたしが泣けなかったからにすぎない。

 まあしかし、わたしはどちらかといえば数式というか数字そのもの好きであるから、この博士の気持ち、同意できるわけです。シンプル、やはりシンプルでないと。シンプルにすることはとても難しく、美しく、楽しいということ。そんなことをシンプルでなく、複雑に捏ね繰り回している私の雑文。
 本当は普段と違うことを書きたかったのに、結局こうなる。これがわたしのスタンダードなんだろうか?
 私が生まれ育った田舎町は、戦中に堀口大学が何かの縁で疎開していたところで、母の勤め先の近くにその当時使用していた土地があった。それはもはや、片隅に堀口大学を記念するごく小さな石碑があるだけの、単なる薄だらけの空き地となり、しかし、彼の浪漫的な雰囲気から、「星の瞳のシルエット(柊あおい/りぼん/集英社)」における、星が降ってくるすすき野原ってこんなじゃなかろうか、とそれなりに乙女チックな想像を、妄想をしたこともあった。

 訳者・堀口大学に対する個人的想念はさておき、わたしとモーリス・ルブランの出会いは「ルパン対ホームズ」であり、その中のホームズの描かれようがなんとも滑稽で(ホームズが日頃はやや見下しているスコットランドヤードのレストレード警部並みに力技で強引な捜査しかせず、捕まえたルパンにもまんまと逃げられているのだ!)、軽い憤りすら感じた。
 しかしその頃から比較的律儀なわたしは、少なくとももう一冊ルブランの本を読まねば正確な評価ができない、と何故か決めていて、そうして読んだ813や水晶の栓は、荒唐無稽な面白さもあり、楽しませてもらった、という経緯がある。

 「棺桶島」はやはり荒唐無稽で、ルパンはその孫(?)にまで続くと納得させられるほど、女に弱く、時にどこか間抜けである。そんな適当な作戦でよいのか?と思うところではしっかり敵に見つかり、状況を悪くし、しかしどこから、いつのまに、というような腹心の部下や発明品で状況を一気に改善してしまう。
 昔、売れに売れたと言われるアレクサンドル・デュマも共通しているのだろうが、荒唐無稽な冒険、メロドラマ、サスペンス、は当時のフランスもそうだが、現在のハリウッド超大作にもなんら変わりはしない、そういうスタンダードな面白さなのだろう。

 しかし、「棺桶」+「島」となると、「死人の箱には…」という海賊の歌とスティーブンソンの「宝島」を思い出してしまう。いつだってわたしはスタンダードな面白さをそれなりに愛していて、本当は昔から乙女チックな妄想よりも荒唐無稽な冒険に心惹かれていた。
 …今となってはそのどちらも欠けているのだろうが。
 それにしても、やはりルパン対ホームズの中のホームズ様はちょっとかっこ悪くて切ない。
 こんな日記なんて書いているけど、エッセイ自体はそんなに好みじゃない。エッセイを書き散らす「自称・女文士」も「文章も書ける芸能人」もそんなに興味をそそられない。別に彼らもわたしなんかに興味をもたれたくもないだろうが。

 じゃー遍く「エッセイ」が嫌いなのだとしたら、それは思い込みとか食わず嫌いみたいなものなんじゃないのか?と問われれば、わたし自身もそう思わなくもない。しかし、そんなわたしでも、比較的好きなエッセイもある。
 
 ながなが書いて、要はそれが林真理子なのだが、この「女文士」よく出来ていた。きちんと面白く、バランスも良かった。詳しくは書く余裕がまだない。
 
 ポオなのかガストン・ルルーなのか、とにかくその頃からあらゆる型のミステリが思考され試行され施行され嗜好されてきたし、わたしも食わず嫌いではないひとなのでできる限り様々なジャンルに手を出してはみたものの、結局のところ行き着く先は「本格」であり、「動機よりトリック」なのである。だってわたしの行動自体、そんなに強い動機があるわけじゃないし。

 島田荘司は有名な人で、有名な人というのは好評も悪評も、おのずとアンビバレントな評価をもらってしまうものである。

 さて、いよいよこの「ロシア幽霊軍艦事件」について触れてみたい。
 印象としては、「切り裂きジャック〜百年の孤独〜(タイトルは正しくないかもしれない)」という、やはり島田氏の切り裂きジャックに対する考察をミステリとして上梓した作品なのだが、なんだかそれに似ていた。別に似ているのはトリックとか、そういうことではなく、事件の背景あるいは主役にあたる女性の悲哀が根底に描かれているという点である。
 さらにそこには本格らしく、奇抜な様でいてなんだか説得力のあるトリックがある。
 御手洗潔を名探偵にすえたストーリー展開もさすがにこなれていて、読みやすい。

 つまりは、ミステリとして本格ファンとして満足できる上に、ちょっといい話だったんですよね、パタリロみたいに。なんていったら、アメリカの島田氏はどう思うんだろうか。
 休暇の際、彼女とグアムに行こうとしたら、直前にパスポートがどうしても見つからず出発当日にドタキャン、関東土下座組くらいに額を床にこすりつけ平身低頭懺悔をし、一人一泊2万円の温泉旅館で許してもらったという、切ないエピソードを持つ後輩が、これを読んでいた。

 彼の持つ本はなんだかぶかぶかしており、なぜかと問うと「フロで読むんで」とのこと。ずばり感想について尋ねると、まとまって読む時間が勿ったためか、最近の叙述ミステリへの抵抗感があるためか、最初の方は面白かったが後のどんでん返しでクエスチョンマークが飛び交い、終いにはなんだかよくわからんかったとのこと。

「まー俺が『ハサミ男』読んでる間に世間じゃ『電車男』だった、ってことっスよ」

 いやしかし、わたし自身はこのハサミ男はなかなかの秀作と思います。まず読みやすい、そして結構意外。想定内で意外。パラノイア的に意外だと折原一の倒錯シリーズとかになると思いますが、こういった感じの意外性はおもしろいといっていいんじゃないでしょうか。
 
 というわけで、久しぶりにミステリのこと。やはり、その内容から言っても、ミステリのことにはどうしても言及しづらい。じゃあ書くなって?
お久しぶりです。とってもネット環境の良くないところに出張中の日々のため、大分ご無沙汰いたしました。でもその分、落ち着いて本が読めたような。

もうすぐ12月だけど、「クリスマス・テロル」ってご存知?佐藤裕哉って作家が書いていたと思うんだけど。確かそれは、「監視する-される」という対立項の錯綜と転倒がストーリーの主軸だった。この『幽霊たち』もそんな感じ。スピード感のある、サスペンス的な、でも切ない、しかたのない話。

そのスピード感はクロード・シモンの対極で、村上龍に近いかもしれない。

わたし、が生ある人間だとして、幽霊というものを想定したとして、幽霊から見たわたしって何? 宇宙人にとっての宇宙人は誰?あらゆる存在や規定はその条件さえ弄ってやれば簡単に転倒するものなのね、もはやそんな考え方さえ古くてダサダサ。あーどこかに新しい思考って落ちてないものかしら。それとも新しいものを見つけられないことが年をとるってこと?そうしていく間にもうすぐ師走、またわたしは走らなきゃいけない。今年のクリスマスイブも夜通し仕事の予定がもう入っているから。
 陰陽師はついに完結した。
 
 まだうまく語れない。また今度。
「菌がみえる」主人公”沢木惣右衛門直保”と、その幼馴染で親友、造り酒屋の息子である祐樹蛍が、農業大学へ進学!指導教授の樹慶蔵と院生である長谷川遥は、どーやらその菌がみえる能力を用いてなにやら大きな事に利用することをたくらんでいるらしい・・・。さらに寮の借金を返すためになんとしてもどぶろくを完成させたいダメ学生2人(片方は、”笑い飯”のヒトに似てると思うんですけど、わたし)。醸造発酵型農業大学キャンパスコメディー? 


突然ですが、愛地球博に行ってもいないですが「モリゾーとキッコロ」がとてもかわいいと思います。
りらっくまがかわいくてしかたありません。
村上隆氏の六本木ヒルズの「マサムネ」と「スピカ」はかわいいと思います。

「もやしもん」に出てくるたくさんの菌も、主人公・直保の目を通せば大変かわいいキャラクターに早変わり。そんで、「かもすぞ、かも(醸)すぞ」などいいながらふわふわしている細菌たちのなんと愛らしいことか!
 雰囲気としては動物のお医者さん的な要素もあるだろうか。
 理系まんがとしてかなり面白く、今後にも期待したくなる。そーいや、2年前にわたしが起こして培養した後に、液体窒素の中に眠らせている細胞達は元気なんだろうか。あんなに増やしたE.Coliももう何世代目までいっているんだろう。人間以外の生物と接していたあの頃がやや懐かしい。

 理系まんが/環境/発酵に興味がある方は、ぜひ。
 なんだかかなりの初期作品集とのことで、絵柄が二転三転は当たり前の様。でも嫌いじゃない、いい感じ。
 
 読みきりばかりが全6話なのだが、「ちょっといい話」に「いい感じのオチ」がうまい具合につく。たぶんそれはその後の作品にも影響していると思うのだけど。ちょっといい話は多いけどハッピーエンドなストーリーは皆無といっていいほどで、普通に後味が悪かったり、何らかのしこりが残っていたり、まあとにかくすっきりしないのだけど、それなりに彼ら(登場人物たち?)のなかで解決はついた、ひと段落ついたような・・・
 そういうものなんだろうか、人生って。どんなイベントが、ドラマがあっても終わらないし、容易にいい方向へなんて向かわないけど、それなりになんとかすれば何とかなり、逆転サヨナラとは言わないけれど、明日につながるいい試合の連続みたいな。なーんて、私らしくもないことでお茶を濁してみる。ネタバレしないようにオムニバスを語るのはわりと大変で、チト面倒臭い。
 
 突っ込みがさえるマリー(居候・助手)、なぜか強いがちょっと天然なクラレンス(執事)そして一見頭脳派、しかし武闘派の犬神ゲル(所長)の破天荒なキャラが奔走する世界は愉快な気持ちになること間違いなし。


 近頃兎に角忙しくて、ノルマも多くて、気持ちにゆとりがなくなりがちなんだけれど、そんなときにはこんな破天荒な漫画なんかを読むのが手ごろな気分転換なんじゃない?というわけで、近くのコンビニで衝動買いです。
 
 2ヶ月ほど前、「書こう書こう」と思っていて、忙しさにかまけてついつい置き去りになっていたのが、この桜ネタだ。もはや季節は入梅で、桜とは程遠くなってしまったけれども。

 さて、わたしのすむ地域には昔、地方の豪族の古墳であった遺跡に、桜の木がたっぷりと育っており、花見会場として名を馳せている古墳跡がある。
 そのちいさな山の中腹にはなぜだか霊園があり、夜桜でも見に行こうものなら、数々の墓石がヘッドライトを反射して、そら寒いような、むしろ美しいような気にすらなってくる。
 桜の花をライトアップするのは薄暗い雪洞で、正直、足元すらおぼつかない薄暗さである。その微妙な明るさは、むしろ夜の暗さを際立たせる意味しか無いかのようである。
 なだらかな丘は桜のトンネルとなっており、手の届くところまで枝を張り出した桜から、むっとするようなでも確かに桜の香りが鼻腔を満たしてくる。
 そうして、桜のトンネルが終わり、丘の頂上(おそらくそれは円墳の頂上だ)へくると、突然眼下におよそ270度、わたしのすむ街の夜景が一望されるのである。

 そうしてわたしはいつも、この山に訪れるたび、「桜の森の満開の下」を思い出す。むせ返るようなほど覆いかぶさる桜、その向こうの闇、その桜の下の死体(それは豪族の死体でもあり、無数の霊園に眠る魂でもあろうと思うのだが)、このある程度理想的な舞台で、誰か、否わたし自身が狂ってしまうことはなかろうかと、狂気への期待と不安に少しばかり胸を躍らせて、桜のトンネルの下を潜り抜けるのだが、残念ながら・幸いながら、いまだにそのような現場には遭遇できないでいる。

 今年は大変忙しく、その古墳跡の桜を見たのはほんの小1時間ほどで、しかも前日から40時間ほど連続で働いたあとで、強い疲労感に蝕まれていた。
 そうして視たそれはおりしも散る間際、持てる限りの力で満開となっていた櫻花であった。低気圧が近づいているせいか、空気は重く、花弁をしっとりと濡らしていた。地面にはすでに、一足先に散った花弁が覆っており、踏みしめるたびにきゅう、きゅう、と鳴くようである。その場に蹲りたくなったが、止めておいた。わたしはまだ狂気に委ねるわけにはいかないからだ。

 丘をくだり見上げると、その花を戴いた円墳は周囲の民家や量販店とはあまりに不釣合いだった。あれはやはり日常の場ではない。

 いまは、ひっそりとしているけれども。
 あの島田荘司が褒めているんだもの、という、如何にも安易かつ受動的な理由で手にした一冊ではあったが、なかなかどうして、その内容たるや、系統だって読みたくなるような内容だった。

 分類としては「叙述ミステリ」となるだろう。さらに言葉遊びとして「倒錯」「盗作」が絡み合うのである。
 それに叙述に倒錯が付加されると、なんだか狂気がそこにある感じがする。狂気がなければ、叙述で倒錯する必要なんてないからだろう。その狂気は、なんだか日本的な湿度を帯びていて、欧米ホラーに対する日本(アジア)ホラーの特徴というか、そういうじめっとした、「ハラハラ・ドキドキ」よりは「おどろおどろ」という感じの、そういう印象をじっくり読者に与えるあたり、「ミステリなんて単純だよ、犯人あてでしょ」みたいなライトミステリに食傷気味の人にはぜひとも読んでいただきたい。

 ね、こんな風にだらだら書くと、このちょっとした叙述すら倒錯しているように見えません?
幻の傑作コミック、ついに復刊!
映像創作集団STUDIO4℃の最新新化形アニメーション映画「MIND GAM E」の原作コミックス。ポジティブな疾走感、トリッピーなイマジネーション、そし て強烈なメッセージ性。カルトな人気を博しながら長らく幻と化していたロビン西の 名作コミック奇跡の復刻!単行本3巻分を一冊に凝縮した完全版仕様で再登場


 逸脱というか、離脱というか、そういう空中浮揚的なもの。
 そういう「カルト」なものはいつだって一定の人気があって、ときに大流行したりする。

 なんというか、この混沌としていて疾走感のある状態を描くのに、やはり「関西」というなんでも取り込んで包括するお国柄というのか、そういう包容力の対極で「関西」という枠を固持し続けることができるパワーを持っているということ、そのDoubleEdgeさがこのカルトコミックで「関西」が舞台となっている理由かもしれない。
 浮世離れした、ありえない設定・ストーリー展開が、それなりにコミックの中で「ありえる」ことになっている理由として、舞台が「関西」である、ということだ。

 それで、何だというの?

 離脱なんて解脱なんてできない。
 わたしは日常に依存しているし、日常に未練があるし。
 そうしてトリップなカルトマンガを読むのだわ。

 *忙しいのでこの辺で。

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