「これはほんとに名作だよ」

と言って、同僚が貸してくれた漫画である。

 この漫画の主人公はバンドブームでなんとなくメジャーデビューしたものの、「本物のロック」にこだわり、「本物の愛」を求めているのに、おいしい話には簡単に心がぐらつき、とりあえずファンの娘たちと愛のないセックスを繰り返してしまう。
 
 後悔するのに、繰り返す。その度に訪れる空虚感。そんなとき彼の前だけに現れるのが、彼の尊敬するアーティストの幻想なのだ。
 ロックを求めるときには「ボブ・ディラン」が、愛を求めるときには「レノンとヨーコ」が。
 幻想たちは説教をする訳ではない。時に語りかけ、見守るだけだ。しかし主人公はそこに「自分で意味を見いだす」。

 主人公がやっと求めていたものを手にし始めるとき…幻想たちは静かに去っていくのだ。

 何かを求めるだけでなく、探しているとき、人は本当に弱いと思う。自信が持てないからだ。自分に対する疑問があるから何かを探すし、方向性に迷いを生じる。あこがれの対象と自分とを比較し、現実に打ちのめされる。誰にでもあることだ、誰にでも。

 この情けなさ、弱さを私は愛する。
 このような26歳男性は、近年、そうそういないとは思う。いたら「キモイ」と言われること間違いなしでしょうねえ。

 目出度い目出度い、と主人公は言うが、読んでいて嘲笑と憐憫とちょっとした切なさの向こうに、わずかな、わずかな共感を抱いてしまうのを禁じ得ない。さあ、これのどこが「目出度い」のか?

 この「お目出度き人」」が刊行された1911年は明治の末年であり、日露戦争後の不景気の中、文壇の巨匠たちは軒並み暗い感じだった。石川啄木は病気だし、夏目漱石は不機嫌のあまり博士号を突き返す始末だった。そんな中で、この目出度さは、いや、明るさはかなり新鮮だったろう。

 要はストーカーの話である。26歳独身男性はインテリの香りを漂わせながらも唐突に「自分は女に餓えている」と熱く語りだす。どうやら少し前にあこがれの女性に振られたようだ。失恋の痛手が和らいできた頃、近所のぴちぴちの女学生「鶴」のことが俄然気になってしまうのだ。まともに話したことも無いというのに、主人公の妄想は膨らみに膨らみ、早い段階で彼女と結婚することが自分の、また彼女にとっても幸福なことだと「確信」するに至ってしまうのである。

 この26歳独身童貞男性は、自分の中で「恋」が確定した後、結婚の準備として両親を説得し、仲立ちする人を頼み、鶴にあうために張り込みをし、あまりに女への欲求が高まるとあえて勉強して性欲を昇華させようと試みたり、…っていうか、まず
、鶴の気持ちを確認したら?

 結局、鶴の親を通しての求婚はあっさりと、しかも何度か断られる。その度に彼はこうして自らを慰め、元気づけるのだ。
「自分は勇士である!」と言い聞かせて。
…もう、かわいさすら感じてくるではないか。
 彼は断られて、あきらめることが男らしさなのか、あきらめないことが男らしさなのか、決めかねている。そして「鶴の本当の心がみたい」と願う。
かれは結婚する相手が自分のことを愛してくれていなければ意味が無いことはわかっている。でも、同情でもいいから愛情を向けてほしいとも願ってしまう。
 で、うだうだとそこらへんの悩みを日記に書き連ね、ひとたび寝ようとするのだが、興奮して眠れず、再び起きて今度は泣きながら新体詩を書いてしまうのである。そのタイトル、「目出度し」。

 …我あまりに目出度し
 目出度き故に他人と自分を苦しめるほど
 目出度し

 彼は鶴の学校をのぞいたり、彼女の成績を気にしたりと、彼女を修飾するものを探索するが、一年も彼女に直接あうことは無かった。つねに彼の中で「鶴」は妻の、恋人の、家族の、恋そのもののイメージの結晶であり、イデアであった。「鶴という他者」を受け入れることは無かった。彼にとって鶴は「鶴という形をもって表現される自分自身のある側面」でしかなかった。

 「他者」という意識なくして、恋は成就しても継続できない。他者を自己の分身として扱うことで幸福を得られる期間は続かないものである。彼はその短いはずの幸福期間を、己の妄想力によって必死に延長していたのである。

 彼はその行為が無益なもので、おそらく自分が本当に望んでいる結果にはならないことも気づいていたようだし、周囲の人に迷惑をかけかねない、ひいては「鶴」自身も気持ち悪さにひいてしまいかねない、ということは十分想像できていたのだ。しかし、彼は妄想に妄想を重ねるよりほか無かったのである。
 涙がこぼれるような、「お目出度き人」だ。

 彼は久しぶりに鶴に会えて、あまりに嬉しくて、麻布の友達に「鶴に会ったよ!」と報告する。…切ない。このときこの友人は「そうかい、そりゃよかったね」と答える。このときの友人の表情が目に浮かぶようだ。おそらく私も同じ表情で、同じようにしか返答できないのだろう。哀れみと同時に、心からの同情と愛情が湧いてきてしまう。

 結局、鶴はさわやか系スポーツマン風工学士とあっさり結婚するのである。明らかにこの26歳文系独身男性とは正反対のイメージを持つ男性だ。さあ、こんなときわれらがお目出度き人はどうするか…?
 
 本当は自分と結婚したかったのだが、両親やらの強いすすめで気の進まない結婚をしたのであって、むしろ哀れみすら感じるし、彼女の運命が心配になってしまう、などと言い出す。
 そんな思い込みのまま1ヶ月、彼女にこの思い込みは正しいのかを聞きただしたくもなりつつ、彼はこの発言で締めくくる。

「…しかし鶴が『わたしは一度もあなたのことを思ったことはありません』と自ら言おうとも、自分はそれは口だけだ。少なくとも鶴の意識だけだと思うにちがいない。」

 見事!これでこそお目出度き人である。だからこそ長生きできたのかもしれない。苦悩しない人には深みがでないけれど、お目出度き人でないとつらい時代に生きていけないかもしれないね。
 …でも、鶴はやはり、この人と結婚しなくて大正解だったと…言わざるを得ないのが、やはりかなしいところよね、お目出度き人。
 ここのところ天気のあまり良くない日が続く。そんなときの空は、私の故郷であると同時に、安吾の故郷でもある、冬の新潟の空を思い出すというものだ。空と海は境目をなくし、ただ一様に重い灰色がのしかかり、その空気の湿度は高くジメジメとまとわりつくようだった。
 こんな暗い日ににふと時間が空いたので、休憩時間にこっそりと安吾全集(5)を取り出し、読みやすそうな短編を拾いだす。景気付けに「花火」を読むとしようか。

 さて、浮気とはどのラインを超えることをさすのであろうか?…気持ちが動いたらアウトなのか、キスなのか、セックスなのか、…私の友人には「外で子供を作らなければ、別に」と言う剛毅な女もいる。
 そしてどうも、この「花火」のヒロイン・ノブ子は定義としては「セックス」を浮気のラインに用いると見せかけて、実際は「官能」こそが浮気のラインであると意識下では認識しているようだ。

 面食いなノブ子は勢いで金持ちで太っ腹だが醜男の木村と結婚し、役者たち、とくにミン平という貧相な小男だがイケメンの役者に入れあげ、パトロンとなる。
 ノブ子にとってセックスによる官能はむしろ嫌悪の対象であり、彼女にとって真の官能は…美男子を見かけたりミン平と腕を組んだりするときにグイグイと彼女を持ち上げぼうっとさせる何か、であった。
 しかもこのノブ子、こういった話を夫である木村にしつつ、しらっと
「私は結局浮気なんかできないたちよ。あなたを裏切る度胸がないのよ」
言い切るのである。
 この時点で明らかにノブ子はミン平に恋している。実際、その後の展開で、急に性欲をあらわにするミン平に対して、それまでの自説を翻して、こう望むのである。
「…私は女だから、とっさに、びっくり恐れているような構えになるのだろうが、私は然し、ミジンも怖れてはいなかったのだ。私はまったく妖しさにいちずに酔って堅くなっていた。私はむしろ祈った。彼が、うまく、やってくれればよい、と。
 嫌らしさや、助平たらしさや、みすぼらしさを表さずに、堂々と私を征服してくれればよい、と。失敗するな、成功して、と。」
 
 ある意味、ノブ子は現代的な女なのかもしれない…この身勝手さ、自己中心性は、バブル期のイメージを背負ったボディコン女という類型と何ら変わらない気がするではないか。
 決して望んでいた訳ではない打算的な結婚、それから生まれる浮気願望。男、というよりはその男が持つ金銭に服従し、然しその一方で金銭にまみれた醜男を蔑みながら、自分がいいように扱える立場の弱い男にしなだれかかり誘惑を試みる。然し同時に男というものに美しく蹂躙されたいと願っているのだ。

 それはすべて、自己中心的な欲望である…しかしノブ子はその欲望すべてにもっともらしい言い訳や説明を用意して、正当化を図ろうとする…ノブ子の(おそらく美人)まえでは、男たちはただ女の欲望を満たすために存在するよりほかにない。

 「私は酒には酔えない。男の美しさ妖しさの花火には酔える。その花火には、私の理知は無力であった。」

 貪欲に激しい女。
 しかし、ミン平はノブ子に欲情したというよりは、彼女と別れ自殺するつもりでいたため逆上していたのである。結局彼は悄然と弱々しくうなだれノブ子に詫びることとなる。
 そして、ノブ子は生を投げ出した男の深い目、美しい目に逆上し、興奮して、ついに男の首をカミソリで切ってしまう…しかもその血しぶきの激しさにミン平の愛情を感じ取ってしまうのだ。 
 このような女は決して満たされないのだろう…満たされることを外界に、男に求めている限りは。彼女が満たされたのは、最期に彼女がミン平に何かを与えようと…正確には死に水を取らせようと、自らの首を切り、その血をもってミン平の死に際の乾きをいやそうとしたときだった。

 「私の血の噴水が彼ののどの乾きをみたす楽しさに、私はうれしかったのだ。私の胸は燃えていた。そして冷たく、冷静だった。そして、すべてが、わからなくなった。」

 激しい恋が、死や血によってしか収束できない愛が、究極の恋愛だとは思いたくない。
 確かに美しいのかもしれない。美しい瞬間を激しさだけで切り取るのだから。
 しかし、これは究極の愛ではない。単に愛の一つの形に過ぎない。人それぞれ向き不向きがあるというものだ。
 ただおそらく確かなことは、満たされないことを嘆いて、救いを求めているうちは、決して満たされることはないのであろうということだ。一瞬、満たされた気がしても、それは次の欲望や満たされない喪失感を呼ぶばかりで、また次なる何かを求めてしまう。
 貪欲なノブ子が、満たされたのは、唯一、自らの血を持って愛する男を満たそうとした瞬間であった。彼女はその瞬間において聡明で、冷静で、情熱的で、そして愛に満ちていた、と、私はそう思う。

 ノブ子は花火を愛した。
 花火の美しさはよくわかる。壮大で、豪奢で、華やかで、鮮やかで、そして儚い。
 でも、私に花火は愛せない。美しく儚いからこそ、「愛してはいけない」気がしてしまうのだ。儚いものを愛するとき、そこには喪失感が絶対的に存在し、そのあとの空虚さ、寂しさに震えるという永遠回帰する欲望と愛情と喪失を辿らねばならなくなる。
 では、何を愛する…?そう、その美しさと儚さを表現する一瞬のために労力を惜しまない花火職人、彼は決していい男ではないだろうけれど、おそらく死をもって自分を燃やし尽くすことはない、ひたむきな努力家…いやすなわち、安吾を愛そうではないか…!
…本当は画像が欲しかったのだけれど。

あとがきで中上は言う、
「これは谷崎潤一郎への和讃であり、『重力の都』で物語という重力の愉楽を存分に味わった。…小説が批評であるはずがない、闘争であるはずがないと確信したのもこの連作であった。…」

「秋幸」3部作も読んでない私には、やはり、この『重力の都』の重力を感じることはできないのだろうか?

数年前、重力の都を読んでみたとき、正直なところ字面を追うのに必死で、確かに谷崎的ではあるけど、舞台にしろ設定にしろ共感的に読める部分がある訳でもなく、ただ噂に聞くほど官能的な感じはむしろ受けず、本当に恥ずかしい話だが、全く訳が分からず、この本は私の中で「目は通したものの『読んだ』とは言えない本のカテゴリに入り、そのまま放置していた。

あれから何年か経て、けっしてこの本の官能性や情動性に共感できるような経験を積んだ訳でもなく、ただなんというか、「純文学」というジャンルに対する妙に肩肘張ったような意識が消えて、素直にまた読みたいと思った。そして再び手に取る。

やはり、煙に巻かれていく感覚がある。
筆者の視点なのか、主人公の男の視点なのか、彼が見つめる女の視点なのか、はたまた遠くの貴人の視線なのか、つらつらと流れる文章の向こうには、いくつもの視線が現れては消え、入れ替わり、しかし維持されていて、主語と述語の整合性は乱され、状況をうまく把握できない夢の中のようだ。

視線の変換、語り部の介入による統一性の不在、それがストーリーを奇妙に絡ませ、同時に複雑に美しい模様を織りなす、ということなのか?

繰り返し出てくる、春琴抄にも似た「針と目」のイメージ、まさに「刺青」のイメージ、それらは皆、「身体と針」による火花のような、稲妻のような、強烈なイメージの発火であり、そのときすべての「汚れ」は痛みとともに「美しさ」に昇華されるのかもしれない。

言葉、をいろいろとこねくり回してみれば上のようなことしか言えない。私の中上の読み込みなんてこんなものだ。

では、では、私の言葉で何かを考えてみようか?
注目する点は、そう…やはり「重力」だろうか。

重力、について考えたとき、私にとってはイコール物語、でもなんでもなく、重力はただ「g=重力加速度=9.8m/s/s」である。
…んん?「加速度」?
中上がもし、物語=重力と表現したとき、そこに加速度のイメージを含ませていたとしたら、それは私にもやっと理解できそうな気がしてくる。

物語が批評でもなく闘争でもない、とすれば、物語には「結論などない」のであろう。なんらかの筆者のイデオロギーがあったとしても…それは結論だったり正解だったりするはずはなく、ただ
主張にすぎない。
だとしたら物語は何を表現しているのか?…加速度ではないだろうか?この場合の加速度は、どこでもない何かへ向かう力そのものを指す。堕落でも飛翔でも、官能でも苦痛でも、無垢でも穢れでも、あらゆる対立項においてそのどちらでもなくまたその両極どちらにも向かう、人の、時間の、場の、自然の流れ…それらの動きに伴う加速度は文章を生み、それらは折り重なって物語となる。

私にはまだ中上は難しいのかもしれない…この重力についての考察すら浅慮であろう。
しかし、しかし、この「重力の都」で私が感じたものは官能でも谷崎っぽさでもなく、物語を微分していくと「重力=加速度」であるということだった、少なくともこの時点では、
そのことは書き記しておこう。いつの日かまた読み返す日の糧とするために。
ついに、ついに読んじゃった、って感じ。
古本屋の軒先で、100円コーナーにあったから。
テレビでやってた映画も見て(ゴメン、真剣に見た訳じゃないけど)、わりとハリーポッター並み、とは言いませんがそのくらい話題だったと思う。

一時間弱で、冷静なまま、読了。

まだロッソには手を出してないから、何とも言いようがないのだけども。

わかった、わかったよ、辻さん。あなたの好きな女のタイプは、他にも著作読んだからね、もうだいたい分かった。あおいが現実にいればね、相当いい女だと思う。絶対モテモテだよ。順生にどうこうできないくらいにモテモテだと思うよ。飛び抜けてる訳じゃないが、目を引くほどには美人で、賢く聡明で、クールだけど恥じらいとか優しさにはあふれてて、10年後の待ち合わせを思いついちゃうようなちょっと神秘っぽさ入ってて、いざというときには黙って身を引くいじらしさというか、とにかく「私は普通のおんなじゃないの、でも、おんななの」というアピールに長けた女性。

でも、順生もモテモテなんだよね。見た目はちょっといい男程度、、今のところ生活力は低いけど、突出した才能というかその萌芽は在って、ちょっぴり優柔不断、でも男らしさみたいなのはあり、少年のような無邪気さと、大人っぽい気怠さ両方を兼ね備え、内省的だけど根暗じゃない、こだわりは在るけどオタクじゃない…ははは、普通、普通の男として描かれているけど、やっぱりそこには普通じゃ片づかない「不思議な魅力」っていうのがあって、そこに女が寄ってきてしまうのよね。

「ブルー」に関して言えば、順生は8年かけてあおいを思い出の中で慈しんで来ているから、そりゃあ最後にそっちを取るだろうよ。数年付き合って思い出を重ねたくらいの芽実じゃ太刀打ちできないよねー。

順生は芽実を愛していた、と言うけど、多分、彼が愛していたのはやはり芽実じゃ無いと思う。

傷ついたけど素敵な恋をした自分自身、それを与えてくれたあおい(の思い出)、今でも約束を忘れられない純粋な自分自身、その約束を与えてくれたあおい、そういうものを彼はずっと愛していたんじゃないだろうか。
芽実のことも好きだったと思う。いい女だし。すごく美人って設定だし。可愛いし。でも、それはあくまで「あおいじゃない女」としてなんだろう。かれはあおいと再開するために、学ぶ必要があった。第1に、彼が愛する者は自己と、自己を愛させてくれるあおいという存在であるということ、第2に、傷ついているだけではだめで、恋には前向きさが必要だと言うこと。それを教え、寂しさを埋めるために必要だったのが芽実だった。

まあ、それでも良いでしょう。

これが流行った頃、私が一番興味深かったのは、周囲の反応や感想だった。ブルーもロッソも両方読んだ人たちは、男性だったらブルーの方が面白かったと言うし、女性で在ればロッソの方が面白かった、と言うケースが多かった。

となれば…ロッソも読まなきゃいけないじゃないですか…。
ずっと以前から、読もうとは思っていた。
さほど私と年の変わらない、しかもいきなり芥川賞を受賞したこの早熟な青年作家に対して、羨望とか好奇心なんていう俗っぽい興味が先に立ってしまい、出来るだけフラットな心持ちで読めるようになるまで放置しており、―で、今になってふらっと立ち寄った書店で購入した、という訳だ。

解説が、いい。

四方田犬彦氏の解説なのだが、「こりゃあうまい」と思わず膝を叩きたくなる。私が日記に書きたいレビューはこの解説のような文章だ。―まあ書けやしないのだろうけども。

放っておくともっと解説ばかりを賛美しそうになるので、意識的にこの辺で止めることとし、やはりここはフラットな気持ちで、小説自体の記録をしたい。
(しかし、この解説に必要以上の共感を抱いてしまった以上、この解説の視点という呪縛から完全に解放された状態での記録はおそらく困難だ…それでも私は記録する)

はじめに触れておくべきは、登場当時も話題になった、煩雑なルビの使用であろう。四方田氏は解説の中でこう語る。

「作者はルビを引用として用いることで、それが母体としてきた物語の力(おそらく泉鏡花的な)を借り受けようとしている…ルビを引用しエクリチュールにバロック的な装飾を施すことで、かつてルビが体現し奉仕していた、物語という失われた言語の中に参入しようと試みているのだ。…」

このような視点は、長野まゆみの著作における宮沢賢治的キーワードの引用にも感じられる。古今東西の書物にあふれた現代、「独自の言葉」「独自の文体」というものを生み出すのは非常に難しくなっていると思う。必然的に誰かに似る。しかしもはや似ることは「盗作」を意味しないのだろう。「似る」こと自体が表現技法であり、上手に「似せる」ことはむしろオリジナリティかもしれない。
ルビのみならず、著者は確信犯的にエーコ風に書き出し、バルザック的展開を経て、泉鏡花的に派手な結末(日蝕)を描き、三島由紀夫の再来と呼ばれた。―この「確信犯的に」というのが彼の早熟さの根本ではないかと思う。

特別な足跡を残したい、誰かの真似ではない自分らしい表現を、しかし書物を読めば読むほど、学べば学ぶほど、自分が「自分にしか無い」と思っていた思考はすでに何者かによって表現されていた、という浸食―「自分が書く意味」は無いのか?むしろ誰ももう書く必要は無いのではないか?もう言われてないことなどないのだから。―いや、物語はそれでも書かれなければならない。

著者がこのように考えたうえで確信犯で在ろうとしたかどうかは全くの私の憶測だが、似たような苦悩はあったのだろう、と思いたい。

文中に、彼のイデオロギーは傍点部分として表されることが多いように思う。例をあげよう。主人公が酒と女に溺れ堕落した教区司祭ユスタスについてこう語る。(傍点部分含む)
「…より甚だしい堕落から月並みな堕落へと衰弱してしまったかに見える。或る本質的な堕落から周辺的な堕落へと衰弱してしまったかに見える。…それが私には…はるか以前より、我々総ての者に於いて起こっていることの酔うに想えてならぬのである。恰もさかしまの堕罪であるかの如く。…」
また、錬金術師ピエェルに対して、次のような印象を抱く。(ヘルメス選集の一節として、傍点付き)
「…地上の人間は死すべき神であり、天界の神は不死なる人間である、と。」

その後、アンドロギュヌスが現れ、物語は一気に加速し終末へと向かう。アンドロギュヌスが魔女として処刑される際に日蝕が起こり、まさに秘蹟、霊肉一致の至高の瞬間が訪れるわけだが、この辺りの文章、非常にスピード感が在る。そして悉く「両義性」について語られている気がしてならない。

そも、アンドロギュヌスは男であり女であり、またどちらとも言えぬ。その点で両義性を孕んでいる。
「この奇妙な生き物には、固より霊など宿ってはいないのである。…それは独り肉体しか有さなかった。肉体しか有さぬが故に、唯肉の原理によってのみ生き続けるのである。故に、その死は生と無礼な程に親しかった。…」
アンドロギュヌスの受けた拷問の傷から、「聖女にのみふさわしい馥郁たる香気」が立ち上り、魔女を処罰していたはずの人々に「我々こそが罪深く、それを贖いうるのがアンドロギュヌスなのではないか」という価値転倒を引き起こす。

日蝕!錬金術的化合のために、最後に必要な触媒であったのだろう…アンドロギュヌス、火刑、日蝕、さらには巨人の幻影、宗教的秘蹟はここに揃う。その時主人公に訪れたのは―両義性の転換に次ぐ転換であった。
「私は見ながらにして見られ、…私は僧であり、なおかつ異端者であった。男であり女であった。私は両性具有者であり、両性具有者は私であった。…起こるべき運動は悉くこの瞬間に起こり、過去の運動は、この瞬間に於いて無限に繰り返された。…私の霊は肉とともに昇天し、肉は霊とともに地底に降りた。…内界は外界と陸続きになった。…世界が失われて私があり、私が失われて世界があり、二つながらに失われ、二つながらに存在した。唯一つ存在した!…」

そして日蝕は終わる。

…読まなきゃ良かった、とも思った。このイメージ―この総ては両義性を孕み、それは容易に転換しうる、という思考―は私自身、思春期に想起して以来、なんとかしていつかは文章として表現したいと思っていたイメージであった。他者に言語のみならず思考もろとも奪われていくような喪失感…しかし同時に同好の士を発見したような密かな喜び…その両義性をもって私はこの作品を読了した。

この際、私の屈折した感情は放置しておくことにして、もう少し日蝕を考えたい。

まったく関係ないのかも知れないが、ここで起こった日蝕は、映画「マグノリア」における、「蛙」を私に想起させた。

人は生きるにあたって、幾つもの思惑を持つ。自分自身のこと、他者のこと、思考している以上、己の思惑の中でのみ己が評価され、他者が想念される。当然、他者に於いてはそれがずれる。ズレは摩擦を生み、摩擦は諍いとなりうるし、状況を好転させもすれば悪化させもする。小学校道徳の教科書的に言ってしまえば…「みんな一生懸命生きて居るんだけど、うまくいかないこともあるんだよ。みんな悪くないけど、悪いことも起きてしまうんだよ」みたいな、みたいな。

そんなこんなで悪くなっていく事態、というか救いのなさにあふれた状況―そこに皆の予想を超えた、超越的な力が及ぶ。「日蝕」や「蛙」。これで事態は好転するのか?―否、そうではない。事態は「動く」だけだ。この恩寵は「救い」ではない。
では結果は?―はい、なるようにしかならない。でも、人は考えすぎて動けなくなるときがある。そういうときにこの「恩寵」はあまねく総てのひとの上に降り注いで状況を一気に進展させたかと思えば、呆然とさせ素に戻し、あとは勝手にしやがれとばかりに放置する。必殺技かつリセットボタン。

放置されたら、人はどうすれば良いんだろう?…勝手に逃げるか。取り敢えずまた思惑を重ね、自分の信ずるところを積み重ねていくしか、結果的にそれしか、ないのだろう。総ては両義性において転換しうるし、救いなんて無い、ということを踏まえた上で。…あああ、つまりは私はそれでもやはり、読んで、書くしか無いってことか。
 村上龍の魅力って何だ?

 この「イン ザ・ミソスープ」が新聞連載されていた頃、自然が豊かなことしか取り柄がないような故郷で、私は女子高生をしていた。
 その女子高生の生活は、彼が著作で描いているような都心部の女の子たちとは違って―ふとした道ばたで、お店で、商店街(ちいさいけれど)で常に地方の共同体の視点に晒され、そのころから小心者の私は逸脱することも出来ず…唯一優等生らしからぬことと言えば、進学校だというのにほとんど勉強なんてせず、成績低迷もさほど気にせずに、親の叱責を聞き流しながら、本を読んだり友人といつまでもおしゃべりしていたり、というくらいだったと思う。
 だから結局のところ、彼の描く少女たちや、都市部の生活というのは、私にとってはあくまで想像上の出来事でしかなく―実感なんて一つも湧きようのない、虚構の、虚構の設定だった。だが彼の小説を読むたび、そこに何かリアルを感じてしまうのは確かで、そのリアルさはどのようにして私に訪れるのだろう、と当時はぼんやり思っていたのだが、そろそろ妙齢になって、この本を読み返してみて、少しだけ、その糸口が見えてきたような気がしている。

 簡単にストーリィを追ってみようか。
 20歳になったばかりのケンジは新宿で外国人向けに性風俗の案内人をやっている。そして12月29日からの年末の3日間、フランクという「変わった」アメリカ人をアテンドする。そこに援助交際をしている女子高生やホームレス殺しが絡んでくる。

 「変」という感覚はどこから生まれるのだろう。
 「フランク」は変だ。とケンジは思う。
 ?顔(皮膚が人工的)
 ?表情(特に笑顔が全く可愛くなく、皮膚が崩れるようだ)
 ?脈絡無く嘘をつく
 ?血の付いた金を持っている(女子高生殺しの翌日だ)
 ?自宅ドアに人の皮膚が貼り付けられていた(フランクと出会った翌日に)
 ?汚れてぐちゃぐちゃの金を持っている(ホームレス殺しの翌日…)
 ?歌舞伎町の女性に催眠術を使う
 …

 ざっと挙げただけでも、フランクが「変」だと示唆する情報はこれだけ、繰り返し、書かれている。
 ここでのフランクの持つ「変」はイコール「狂気的」というか、平たく言えば「やばい(危険な)感じ」であるが。
 
 ?〜?の項目に関して言えば「行為」に対する評価であり、そこには?も、やや含まれるだろう。そして、??また?を含むのが「質感」ではないだろうか。
 もはやこの「質感」については、印象とか直感とか、そういう非常に流動的な感覚なのだろうけど、ここには常識と呼ばれる「正常値のライン」は正確には存在し得ないのだろうけど、不思議と人間の中では個人・人種・性差まで越えるような形で共有可能なものとなっている―人が「快」と感じるものには嗜好の個人差が在るが、「不快」と感じるものは概して共感覚であると思う…ゴミ、下水の匂い、汚れ、死、病気、…おそらく誰もが程度の差こそあれ不快に思う、その不快の質感がフランクという「不快な人間」を観察することで語られている。
 同時にフランクが「不快」と思うことも語られる。フランクは狂気で「一般的に不快なモノ」に分類されてしまう人物ではあるが、そんな彼が不快と思うものはケンジにとっても了解可能な感覚なのだ…ケンジはフランクを不快に思うと同時に、フランクの不快さも共感できる。

 不快な質感のみならず、不快な行為もまた、社会通念として刷り込まれてきた「常識」からの逸脱だ。常識、と言われながらも、それは個々人によって差異がある…本書に置いては、公序良俗の視点からすれば排除すべきとされる性風俗業界もケンジにとっては自分が生きている自然な環境であり、援助交際だって大人は眉をひそめるけれど、当人たち(女子高生)にとっては一定の秩序のある常識的行為となっている。

 その狂気へ向かっていく流れを私自身が最も感じたのは「語り」として表現されているところであった。フランクは脈絡無く嘘のストーリィを創作し語ってしまう。おかしな言葉を真剣に連呼する。
 新聞連載中、1日分の掲載が全てフランクの「語り」で埋め尽くされ、途中改行すらされていないことが何度かあった。読点はあれど句点すらない。小説が進むにつれて、その頻度は高くなっていったようにも思う。フランクが狂気の度合いを強めるにしたがって、彼の語りもまた加速度的に長く、切れ目無く、混迷して行き、会話から対象の他者が消えていった。
 フランクの語りは論理的には構成されているように見える―しかし、かれが真剣に、長く、語れば語るほど、人は彼の話を聞き流せなくなるし、聞き流せない以上はそこに潜む彼の狂気を意識せざるをえない。
 会話に置いて、あるいは表現というもの全般に言えることなのかもしれないが、対象の他者や一般常識というものが一定のルールとなりうる…表現する以上はそれらを意識しなければならない…気がする。その抑制をとってしまうことは他者に「変」という印象を与えてしまう。

 フランクは人を殺す。だから社会にとっては有害だ。だからフランクだけが変なのか?―そうではない、「変さ」というのは煩悩のように誰にでもある、それが行為として状況として社会にどう表出するかによって有害さが決まるにすぎない。日本社会とは何か?フランクはそれを「ミソスープ的」と表現する。自らをも小さな具材の切れ端になぞらえて。

 「ぼくのような人間は明らかに有害だ、ぼくはウイルスにとてもよく似ている……ぼくは自覚的に殺人を犯し、他の人間たちにショックを与え、考え込ませる、でもぼくはこの世界に必要とされていると思う、…あいつらは、生きようという意志を放棄しているわけではない、他の人間とのコミュニケーションを放棄しているんだ、…社会生活を拒否するのだったらどこか他の場所へ行くべきだ、何らかのリスクを負うべきだ、少なくともぼくはそうしてきた、彼らは罪さえ犯せない、退化している、」
 「ケンジ、僕には分かるんだ、退化している人間は脳を巡る血流がものすごく弱い、殺してくれという信号を無意識に発しているんだ、だから僕は殺す、」

 フランクの言っていることが正しいとか、間違っているとか、そう言うことじゃない。これがフランクの殺人の理屈なのだ。社会的には間違っていて歪んでいて有害でも、この理屈こそがフランクの中では理論的に構成された「正しさ」なのである。さあ、彼の殺人をどうやって否定して止めさせることが出来るだろう?
―除夜の鐘がフランクの煩悩を消すことに、期待しようか?

 村上龍の魅力、あくまで私が感じる魅力なのだけど。
 ちょっとね、示唆的すぎたりして説教くさい瞬間も在るけど、でも、文体の選び方が、文章の構成がすごく巧いよ。新宿の町並みの挿入とかも、イメージが沸きやすくかつストーリィを奪わない程度に出来ている。それに多分、常に意図的に問題意識を持とうとして社会を観察しているでしょう?そして丁寧に取材もしているでしょう?
 小説はリアルじゃない、虚構だ、でもそのリアルさは?
 文体、文章構成、モチーフ、キャラクタ、テーマ、取材、
 そういうものを意識的にか、無意識的にか、緻密に計算されたかたちで小説の体を為す、
 だから、私は、村上龍に魅力を感じてしまうのだろう。

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