「物語」において、わたしがなぜか苛々するポイントを敢えて規定するならば、それは「愚かなヒーロー/ヒロイン」に対してであろう。そしてそれが特に「ヒロイン」に対して向かいがちなのは、何のことは無い、わたしが「ヒロインではありえない女」だからである。それは明確だ。
 
 ヒーロー/ヒロインが持つ「愚かさ」とは?

 わたしは「禁忌に触れること」「逸脱すること」を恐れてきた。
 今も恐れている、変わらない。小心者でヘタレであるし、運を無駄遣いできるような強運の持ち主ではないからだ。

本書,「楽園」では常に主人公たちは「禁忌に触れる」のだ。
「性」というタブーを主人公たちは常に犯し、いつか破綻しそうな危うい日常を生きている。そしてそれが「楽園」なのだという。
 つまり「楽園」は、そういう危険を冒したさきにのみ存在する甘美なものの象徴ということなのかとも思う。

 「こっちへくるな」といわれて「え、なあに?」ととぼけてふらふら近づき、案の定敵に捕らわれ人質として主人公に迷惑をかけまくるヒロインのイメージは、ストーリーの常套句のようだ。

 そうして、そういえばはじめに楽園を追われた人も、「禁忌に触れた」のだったな、と思う。追われて初めて、「追われる恐怖」が立ち現れ、その恐怖があってはじめて「禁忌に触れること」=「甘美な楽園」という思想を生んでいるのかもしれない。
 でもやはりわたしは禁忌を犯せそうにないのである。
 コリン・ウィルソンの代表作をひとつあげよといわれれば,数あれど,「賢者の石」と答えるべきところであろうが,荒俣氏の場合はこのレックス・ムンディの前に,「帝都物語」という大シリーズが立ちはだかっている。

 どうもこのオカルトだの古代遺跡だの,予言だのUFOだのいうと,昨今は「いかがわしい」目線を投げかけられている。
 荒俣氏はこのいかがわしいオカルトを操るようでいて,トリビアの泉ではほとんど語らない採点員としていつもタモリの対極点を勤めておられる。とてもかつての慶応ボーイとは思えぬ威風堂々たる姿勢である。

 どうやら,最近は「風水ブーム」のようだ。だが,荒俣氏が興味を注ぐ風水は本物の風水だ。
 以前アグネス・チャンがTVで「風水師の意見によっては夫婦の寝室も別にする年もあります」という,長年日本に住んでいる割にはやはりあまり上手ではない日本語でそうコメントしていたが,アグネスにそこまでさせるのが「本物の風水」ってモンである。

 おっと,話がついつい風水にそれてしまった。

 レックス・ムンディは「世界の王」の意である。それは善も悪も混沌のうちに含んだ概念だ。レンヌ・ル・シャトーの遺跡をめぐるテンプル騎士団・聖杯伝説・レックスムンディが,荒俣流にどのように味付けされているかが見所。
 文庫化を待っていたためか,どうも少し古い危機を扱っているようだが,本質はそこじゃない,考古学者に,歴史家に,そして真の好事家になりたかったころの気持ちをどこまでこの本を読むことで再燃できるか,それによると思うのだけれど。
 これって、絶版になってたのね。
 アニメ化もしていたと思うけど。

 ブラックジャックに憧れて医者を志す人は、どうやら今でも結構多いようだけど、MASTERキートンを読んで「考古学者になりたい!」と思った人も、きっと多いと思う。まさかオプになりたいという人は少なそうですけど。

 浦沢直樹の代表作のひとつと思っていたのだけど、違うのかな。私もそうだけど、私の周囲にもファンは多かったのに。確かこれには「葛飾北星」だったか、原作者が存在したはずだが、短編として優秀なお話が多いと記憶してます。

 復刊してほしいなあ。
 うわー、参りましたよ、京極どの。京極堂シリーズが上手投げとか技のキレがうりならば、これは押し出しとか突き出しとかそういうパワー系でした。アンコ型。
 そしてなんとなく、断筆前の筒井康隆の短編集をみている感覚でした。「農協月へ行く」とか「笑うな」とか。嫌いじゃないです、むしろ好きです。
 初めて読んだのは中学生の頃で、冬になるとなんだか読みたくなる漫画である。左に立つ大きなふかふか猫は詩人(詩猫?)の「もっぷ」であり、右に立つのはその妻の「ぷりん」なのだが、この2人、かなりうらやましいスローライフを過ごしているのである。

 この漫画には「乾杯糖」というエピソードがあって、確か、「クリスマスの夜に子供たちは早く寝て、大人たちが楽しく乾杯してグラスをカチリと重ねあうと、そこから金平糖が飛び出し、それを乾杯糖という
。子供たちは翌朝以降、それをおやつにしてホットミルクに浮かべたりする」などという話だったと記憶している。

 「神聖・モテモテ王国」という漫画の中で「ナオン(女)にもてるにはメルヘンじゃよー」などという発言があった。
 しかし、実際にメルヘンな女はやや「不思議ちゃん」であって、斯く言う私は「メルヘン」から最も遠い精神構造と職業で日々を送っている次第だ。
 それでも、冬になると「メルヘン」が恋しくなる。どんなにプラグマティズムに基づく行動をとる友人からも、ときに「メルヘン」の話題が飛び出す。そして、やっぱり大多数の女は「ディズニーランド」が大好きだ。
 女はその母性の中に「メルヘン」たるものを潜ませているのだろうか。同時に背反するような「現実主義」を抱えて。

 まあまあ、私ごときが「メルヘン」を語ろうというのがおこがましいというのは百も承知ではあるが。

 話は変わって、この漫画が文庫化した際に、巻末に「解説」が付記されている。1巻だったか、2巻だったか、それは失念してしまったが、歌人・森島章人氏の解説があった。
 氏はまさにかつての私の師であったはずなのだが、適当な学生生活を送っていた私のことなど、森島先生は覚えておられないであろう。
 その後、森島先生の「アントナン・アルトー本」など読むにつけ、もっとコンタクトを取りやすい学生時代に熱心な学生であるべきだったと後悔している。それでも執念深くその「アルトー本」にサインのみならず短歌を記していただくという勝手な、ぶしつけなお願いを、しかも後輩を通じてやってのけてしまったのだが、その詳細はまた後日語ることとしたい。

 さて、どのような性質によるか、だらだらと堅苦しい駄文を書き連ねたが、本当は「小さなお茶会」のエピソードたちにほっと心を温かくすることのある、実は「メルヘン好き」でもあるのです。本当は詩人になりたかった、と、ヘッセの様な一言を残して、今日はホットミルクを飲むつもり。
 現象学だとかテロリズムだとか、私が良く分からない60年代の風合い色濃い笠井作品で、「現象学的殺人事件ラブコメ・カケル&ナディア」のシリーズ、確か3作目にあたるんじゃなかったんだろうか。
 そして、この笠井氏はどうやら私が現在在住しているのと同県にいるらしいのだが、未だ邂逅できてはいないでいる。

 さて、それはともかくこの師走といえば、忘年会シーズンである。普段は大勢で騒ぎなれない人も、精一杯の笑顔でお酌をして回るなんていう、古式ゆかしいイベントだ。
 先だっても、忘年会の席にて、遅刻してしまった先輩がいた。宴はもはや終盤にさしかかっており、駆けつけ3杯どころではこの会場のグダグダ感にはついていけはしないという状況だった。まーあルーチンに尺でもするか、と思って近づくと、すでに瓶ビールをラッパのみしていた。
「いきなりラッパですか」
「ラッパだよ、ラッパ。七人の御使い、ってさ」
「…ある意味、ニガヨモギですかね。ビールのホップとか」
「おお、なかなかうまいこと言うねえ」

 突然の意味不明なネタフリにも動じない、それが私の先輩への敬意の表しかたではあるが、年末とはいえ、ヨハネのアポカリプスについての発言が出るのは予測不可能であった。
 その後、別の大先輩、マキャベリストによる「ヨハネ黙示録」
の講義が続く。

 そして結局、この続巻の「哲学者の密室」に至っては、何度か挑戦したものの未だに読了できていないのだ、根性が無いからね。 

 
 学生時代から、今に至るまで、「どーしてこの職業を選んだんだろう?」って思うことしきりなのだけど、この本を読むとうまい具合にだまされるようで、ホームズのような探偵になるのはかなり難しいけれど、こういう形で推理というかこの本における記号論を展開したくて私、この道に進んだのだわと思うと、また今日も夜から、明日も夜まで、ちょっとがんばろうという気持ちになれるというもの。
 外はまぶしいくらいに上天気だけど、結局たまのお休みは「休む」ことに終始してまた労働にいそしむことになりそう。ああでも外はやっぱり上天気で、私はちょっと恨めしそうに窓の外を仰ぎ見る、今日も文化的活動なんて、ほとんど何もしなかったわ。
 「世界」、とは、何?

 おそらく、このストーリーの中での「おまえが壊したい『世界』」というのは、『犬神』で壊れてしまった社会としての「世界」ではなくて、概念としてある特定の人物間における関係性を表現するところの「世界」であると思われる。それは、登場人物たちの行動が、外へ放散する破壊活動ではなく、自分あるいは自分の分身への内向的な攻撃のかたちをとっているからだ。

 あー、どうも頭が固い感じ。

 このストーリー上での破壊行動について、わたしはさきほど「攻撃対象は自分あるいは自分の分身」と書いてみた。
 
 恋愛は、「愛し合う」状態である。愛している、という状態は「片思い」と表現されるとしよう。
 この『合う』がミソと思われる。
 恋人たちは「愛し合い」「求め合い」「理解しあい」「抱き合い」する必要がある。一方的では恋愛にならないのだ、自分が相手にするように相手が自分にしてくれなければ!

 もっとも身近な他者、恋人。
 いかにして他者を認知するか、己の一部として?やはり他者として?
 
 なんだか不本意な内容で終わりそうだけど、今は頭がまとまらないのでこの辺で。
 たいていの大判コミックは、普段雑誌をチェックしないわたしにとっては、ジャケ買いせざるをえないものの一つである。
 藤原薫との出会いもそのようなものであった。

 全然関係ない話のようであるが、わたしがビバヒル(ビバリーヒルズ高校〜青春白書)を観ていた頃、最も印象深い話は「ブランドンとケリーが愛し合いながらもすべての行動が裏目に出て、相手は誤解し、また自分は邪推しまくり、結局はすれ違い続ける」というストーリーであった。…性格が悪いのかしら?

 それは、単に面白いということで印象深いのではなくて、「すれ違い」という状態に至る、「仕方のなさ」に絶望したからである。その後、わたしは東浩樹氏の著書に触れて、それが「郵便的不安」とも言えるものだと知るのであるが。

 ナゼすれ違うのか?誤解するのか?邪推するのか?

 「すれ違う」という言葉には大前提として「理解しあうべき・本当は愛し合っている二人」が横たわっている。「誤解」「邪推」の背後には「伝わるべき善意」が存在している。
 
 本当は愛し合っていたり、善意があるのであれば、何故それは歪み捩れてゆくのだろうか。愛が、善意が、そのまま伝われば良いではないか!

 『あのこどもが遊んでいるきらきらしたもの、あれを止めることができれば…』

 唐突に、この漫画の一文に戻る。
 この漫画においても、主人公2人は重なり続ける宿命と互いへの強い愛情を持ちながらすれ違い続けるのである。
 彼らは単にすれ違うのではない。彼らはある事情から永遠の生命を持っているのであるが、どんなに転生を重ねても彼らは出会い、また相手を殺すのである。殺した側は永遠の生命があるため、また相手が転生するのを待つことになる。そして、転生してきた相手がまた自分を殺す。今度は自分が転生し、相手を…。

 それは湖のほとりで突然に受けた天啓のように永遠回帰する哀しみである。

 さて、誰が言っていたかは定かではないが、死は生の終焉であると同時に、最も生を意識する瞬間でもある。死があるからこそ生が意識される。死は人生最大のドラマである。
 古今東西、描かれてきた激しい愛憎の、はじまりや結末が死であることは多い。真の愛=生命をかける感情、ということの真偽についてはここでは保留し、そう描かれることが多いということ・そういうイメージが一般に浸潤していることを念頭に置く。

 その場合、主人公2人の行動は、「愛情の確認作業」と受け取れるだろう。殺す、その喪失感を持って相手に対する愛情の深さを測る。殺させる、それほどの強い感情を相手に抱かせたことを確認する。

 さあさあ!では真実の愛とは死に至ってはじめて確認できるものなのか?

 主人公2人の壊れた歯車をなんとか立て直そうと、2人をささえ続ける恋人たちがいる。彼らは愛し合う2人がいかに永遠の生命を楽しみ、傷つけあうことなく過ごせるかを充分に理解しているようだ。彼らにはわからない、何故、主人公たち2人が愛し合っているのに傷つけあってしまうのかを。だから彼らはいつも2人を止めることができない。

 ここでは、「変化を求め愛情に激しさを求める男女」と「永遠の変化無い日常にアクセントを持たせながらも安住する男女」の2組の男女が並列して描かれている。よりドラマティックなのは前者の2人なので彼らがこのストーリーでは主人公だ。
 この2者が並列して描かれているのが、対照的で効果的だと思う。

 はい、畢竟、世の恋愛とは大まかに分類するとこの2者になるのでしょう。

『あのこどもが遊んでいるきらきらしたもの、あれを止めることができれば…』

 主人公2人の永遠回帰する宿業は、ストーリーの中で頻回に上記のような表現で登場し、終盤では『きらきらしたもの』『失敗作だけど美しいから壊せないもの』として明確な地位を与えられる。そして、彼らがやはりこの輪廻を抜け出せずに互いを愛し・殺し続けることが暗示されるのだ。

 『失敗作』として表現されているのはつまり、「すれ違い」なのであろう。どんなに愛し合っていても、個体同士はけして完全なる同一化を果たせないものなのであるが、愛し合っているからこそ、それを相手に求めがちである。そこら辺のヒトのふがいなさをあからさまに歌い上げているのがミスチルの「掌」ですよね。
 『だけど美しいからこわせない』のは、そのほうがドラマティックだから、だから特殊なのだと、そういう存在意義を宿しているからでしょうね。

 今のところ、壊したい世界なんて、わたしにはないけれど。
 そういうドラマ性は、他者の物語の中で堪能することにします。
 少し年上の人が私に、「ちょっと明治辺りの古典を読んでみなよ」というので、お気に入りの中の一冊であるこの文庫本を手に取る。
 
 漱石の文体は漢文調なせいかどこかしら濶舌がよく、彼が語る神秘や夢想というものは、その文体の彼方に、自己陶酔的な視点から少し遠ざかった位置に、配されることでむしろその事象の特定を上手に避けている感じがする。

 何を言いたいかというと、「昔の女の幻想」や「夢十夜に描かれる夢」は、本当にその女がいたのか、とか本当にその夢を見たのか、という実在によらず、「女」「夢」という『観念そのもの』を語ることが可能になっている。それは、彼の文体が自分-筆者-文章として、「私が、」と語りながらも必ずしも私小説にとどまらない硬度を持っているからではないか、ということである。

 いずれにせよ、私がうまく説明出来ないようであるのは間違いない。

 さて、「文鳥」には常に「女」のイメージが投影されている。

 三重吉が文鳥を勧める際、「千代」を文鳥の鳴き声に投影して物語りは始まる。千代は三重吉の恋人であったかは定かではないが。
 しかし三重吉は文鳥を勧めておきながら、なかなか持ってこない。筆者は焦らされる。古今東西、ふぁむ・ふぁたーるは焦らすものだ。

 その「焦らし作戦」は功を奏したのか、筆者は文鳥のくびの動きに、裾さばきに「昔の美しい女」の影を重ねて文鳥を愛する。この場合、昔筆者にそのような美しい女の存在が本当にあったのか、というのは大きな問題にはならない。文鳥が体現するところの昔の美しい女、とは、筆者にとっての「女」それもふぁむ・ふぁたーるの象徴であるからだ。

 この短編の絶妙なところはこの後にある。

 愛らしい小鳥を女に例えて賛美したり愛玩するのは小説上よくあるイメージ・プレイにすぎない。
 この後、筆者は文鳥に「飽きる」。

 一度「手に入れた」と認識したものに対して、人は醒め行くものなのかもしれない。美人は3日もすれば見飽きるともいう。
 「付き合っているころはやさしかったのに、結婚したらないがしろにされるようになった」という発言は、おそらく結婚した女たちの大多数が一度は思うことであろう。
 
 飽きてしまえば世話は次第におろそかになる。自らは手を出さず放置し、家人に世話を任せきることとなる。そのため、文鳥は猫に襲われる。 

 またまた秀逸なのが、ここで筆者が、一度は文鳥への興味を取り戻すことである。襲われた翌日は餌も水もたくさん与えるのだ。
 猫に襲われる、といった出来事で「文鳥を失うかもしれない」「奪われるかもしれない」という事実に思い至り、執着心が湧いたようである。恋敵がいたほうが恋の炎は燃えるということか?
 ある恋人たちは、互いに浮気疑惑が浮上しては喧嘩し、別れるの別れないのと騒いでは、いつの間にか仲直りする、ということを繰り返して5年以上も付き合っていた。たとえ不安定でも波風が立ったほうが恋の嵐は吹き荒れる、ということだろうか?

 しかしやはり、飽きるのである。そしてやはり、文鳥を失うのである。厭らしい性癖ではあるが、人はただ愛らしいだけでは飽きてしまうものなのだ。
 さらに厭らしいことに、筆者はその死を、家人に転化する。
 自分が飽きたこと、飽きて世話を怠ったこと、だから文鳥は死んだのだと筆者は充分に理解している。だが、愛するもの・愛していたものの喪失で思わず高ぶった感情は、やはり他人に怒りの矛先を向けるのである。ああ、なんて卑怯なわたしたち!

 わたしたちのいやらしさ、卑怯さ、そういうものをひっくるめて文鳥は息絶える。木の根元の土手に眠る。しかし文鳥をもたらした三重吉は誰のことも責めはしない。それは三重吉が出来た人だったからか?それともあくまで他人事だったからか?
 
 …わたしはおそらく後者ではないかと思う。

 頭の切れる漱石のすることですもの、最後の最後まで皮肉にわたしたちの卑怯さをさまざまな手段で明るみに出す、ってことじゃないかしら?
 
 
 キム兄やん、こと、キム・ニールヤングである。
 
 いや、この場合、「こと」ってどういうことよ?

 元ホテルマンのキム兄やん、関東圏に住まう私がお目にかかれるのは、以前は「ガキの使い〜」くらいであったが、最近はMathewにも現れてくれるし、おかしな深夜番組にも出ているので、私はうれしい限りである。あと、雑誌Hanakoかなんかで、コラムを書いていなかったかしら?

 キム兄やんに言わせると、「なべ奉行はまだまだ下っ端。おれはなべ将軍や!」
 というわけで、鍋料理メインの本です。

 なべといえば、最近できた和食居酒屋ダイニング(?)の「とろとり鍋」がお気に入りです。
 まず、とりのつみれと野菜の鍋を、とりのお出汁でいただいた後、おもむろに鍋にとろろを流し込み、地鶏に火を通して、細く切ったレタスとお葱をさっと煮て、はふはふといただく。
 あらかた片付いたら、ご飯を頼むと、こねぎと生卵とともに現れ、鳥のうまみの凝縮したスープで雑炊ができるわけです。これもはふはふ言って食べる。うどんバージョンも可。

 夏に、ノースリーブを着ていただくあつあつのお鍋は、なんだかとてもおいしくて、それは冬にコタツで食べるアイスクリームに似た現代的プチ贅沢なわけで。そういえば、ロシア人は氷点下にもこもこと毛皮を着込んでアイスクリームを食べる、と聞いたけど、なんだか親近感が湧いてしまうじゃないの。
 
 
 学生時代からのある友人とは、親しくなって間もない頃、太宰治のことで夜を語り明かすほどの濃密さであったが、彼女の小さい頃の「将来の夢」は、「スパイ」と「忍者」であった。いずれにしろ何らかの隠密行動と情報収集をしたかったらしい。
 
 しかも彼女は、「忍者」にならんとするため、自宅の庭に成長の早い植物を植え、その上を日々飛び越えていたそうである。いつまで続けて、最終的にどれだけの身体能力を身につけたかは聞きそびれた。あるいは聞いたが失念したのやもしれない。

 
 さて、私自身もスパイにはなんだか憬れていたので、意気投合し、お互いに暗号クイズなど出し合ったものである。
 あくまで子供の自由研究向けの本なのだが、秘密基地とか内緒の手紙とかをやりとりしたりしていた幼い頃を思い出すようだ。
 
 幼い頃は、世の中には冒険の余地が十分にあって、大人になれば知力も体力も、その冒険にふさわしいレベルに達して、スリルとサスペンスに満ちた冒険にいくチャンスが訪れるのだと、漠然と信じていた。
 宇宙刑事も5人組戦隊も、ふとしたことから魔法を使えるようになる少女も、そしてもちろん、MI6のジェイムス・ボンドも、身近な将来に感じていた、あの短いけれど一番キラキラしていた日々を、この本を手に取ると思い出すのである。

 
 …15歳のミヒャエル・ベルクは母親ほども年のはなれたハンナという謎めいた女性と恋に落ちた。「何か朗読してよ、坊や
!」ハンナはなぜかいつも本を朗読してほしいと求め、二人は人知れず逢瀬を重ねていた。…しかしハンナは突然失踪してしまう。彼女の秘密とは何なのか?二人に絡み付く過去の戦争の影は?…

 かなり以前にこの本「ベルンハルト・シュリンク/朗読者」は手元にあったのだが、読む時期を逸していた。
 しかし、偶然とか、巡り合わせというものはなぜか重なるものである。

 先日、ある人が「スパイ・ゾルゲ」を観た、と言った。世間の評判はいまいちだけど、当時の各国の状況とか歴史的背景をきちんと知っている人にとっては結構面白いかも、と言っていた。私はそのような歴史を知っている訳ではないので、そうなの、とだけ相づちを打った。
 その翌日、たまたま同僚に借りた「アドルフに告ぐ」を読む。そこにはナチスと日本が描かれていたが、ゾルゲの姿もあった。
 そしてその翌日、この「朗読者」を読む。ここにも第二次世界大戦の、ナチスの影があった。

 青少年期の性への目覚め、情熱的で柔らかなエロス。
 秘密の多い魅力的な年上の女、机を並べて学ぶ同級生の少女の微笑み。
 初めての愛と、謎と、切ない眼差しだけ残して突然失踪した女、数年後また突然に罪人として眼前に現れた女。

 この著者は以前何作かミステリーを書いており、そのせいか、この作品も純文学的作風を持ちながらも「謎解き」のエッセンスが多い。だから私はあまり多くを語れない。

 主人公ミヒャエルもハンナも、なんというか、「ドイツ的」である。律儀で、少し内省的で、慎重で、粘り強くて、堅固なプライドがある。 それでいて、どこか情熱的なゆるやかさがあるものだから、この二人は惹かれあったし、人生をともに歩むことはなかったけれど、離れがたい絆があったのかも知れない。

 それで私は、というと、このように不器用で少し控えめに律儀な人は、きらいじゃないのである。
 もはや時代はモダンではなくポストモダンであり、それすらもあるジャンルでは古さすら感じさせる状態であるが、「モダン」という言葉はすでにその内に「懐かし」という状態すら孕んでいるようである。その場合、「モダン」というよりは「モダーン」とかなんとかいう発音になるのかもしれないが。

 さて、前置きが長くなった感があるが、この本はタイトルからして、エログロナンセンスの流行った頃の、「探偵小説」というか、古くて胡散臭い新聞の猟奇特集の見出しのような、そのような風情があるではないか。
 
 さらにいえば、文庫版に献辞をよせて居るのが京極夏彦氏と高橋克彦氏なのだから、私が思わず手に取るのは当たり前と言えば当たり前と言えるだろう。

 明治の頃の血を吐く松、迷路での人間消失、消える幽霊電車、天に浮かぶ文字…それを昭和の初めの早稲田の不良書生「阿閉君」が取材して、下宿先のご隠居「玄翁先生」は安楽椅子探偵のごとく縁側で謎を解いていく。そして終末に向けて明かされていく意外な深層…。

 あくまで探偵小説なので、この程度のストーリーしか語れないのだが。

 ええと、探偵小説という響きには推理小説には無い、なんというか、猟奇さを孕んでいる気がする。それは江戸川乱歩先生によるものか。

 モダンの中に潜むレトロ、探偵が挑む猟奇(エログロ)、トリックをあばくロジック。
 そういった一見対極にあるようなものが絡みあるからこそ、そこに何とも言えぬ魅力が湧いてくるのだろう、と両価性の意義を考えた日。
本の帯で糸井重里も言っているけれど、ほんとに「ウケた後のことは自己責任です」ってね。

でも、忘年会とか飲み会とかで、友達とコンビを組んで漫才でも一発、とか、宴会芸として一人漫談(楽器等の使用を含む)とかかまそうと思っている方々は、一度読んでみると良い。

例のすべてがクリティカルヒットなおもしろさってわけではないが、「笑い」をマニュアル化したという点においては、なかなかやるな、というか、その仕事、私がしたかった、という羨ましさすら感じているのである。
 定番といえば定番なのがこの本。

 さて、当直におけるご法度とは、「やばい人を見逃す」「禁忌な処置をする」であると言えるだろう。それ以外のことは大抵、周囲のフォローで事なきを得るものだ。

 まあ、どの場合でも新人の心得としては、「謙虚」になることが一番大切だろう。他者の意見の介入する隙の無い人は、必ずといっていいほど大きなミスを犯すのである。。

 「やばい人」がたち現れるのは、いつだって明らかにやばい状況ではない。なんだか最近疲れやすくって、なんていう不定愁訴の人が、よくよく調べていくと、かなり重症の糖尿病だったりするわけで。

 「禁忌な処置」についても、自分の診断が180度異なる可能性を踏まえ、専門家やベテランにコンサルテーションすれば防げることだろう。其れで防げなかったミスは、どこの誰が何かをしようと、起こるべきものだった、とも言えるだろうし。

 やる気、とか、熱血さ、とかには乏しい私だが、謙虚さだけは忘れずに保持しようと、この夜も堅く、誓う。
 荒俣宏いわく、「大魔王」。
 
 こういうひとにわたしはなりたい。

 って、思ってましたけど。きっとこの域に達するのはかなり難しいのね。

 憬れの、大人。ドラコニア。
 幼い頃、この世のすべてを知りたいと思っていた。
 大人になるということは知ることが増えていって、知識人としての完成型に至ることだと思っていた。
 
 しかし、それは夢想だったのだと、大人に近づくにつれ知ることになる。

 だが、それでも、「知識」というものに対する飽くなき憬れは確かに私に残っていた。その残滓に背を押されるように、私はちょっとした「博物学」に惹かれてしまう。

 それが、荒俣宏と澁澤龍彦だった。

 著者は本書の前書きでこのように記している。

 「もうずいぶん古い話になったけれども、かつて異端や博物学の分野にあって神のように崇敬を集めていた故澁澤龍彦大魔王が、いちどだけ、筆者の目の前まで降臨したことがあった。それは『フローラ逍遥』の挿絵に使えるような古い植物図を所持せるや否や、と、筆者に下問あったのである。当時はろくな図譜を所持していなかったが、その後、筆者は一念発起して植物図譜をあつめだした。澁澤大魔王がいずれ第2の花の本を書かれる際、今度こそは喜んでもらえる傑作が手渡せるように、と願いつつ。
…だが澁澤大魔王は筆者の集めた図譜を見ることもなく鬼籍に入られた。本書は、本来ならば、澁澤龍彦その人が手がけるべきテーマの書物であるはずだ。あの『フローラ逍遥』に一歩でも近づこうと努めたが、いまだ力及ばず、ただ畏れつつも冥府なるわが大魔王に本書を捧げるよりほかはない。」

 …さて、引用が長くなった。要は、古今の花図譜とそれにまつわる蘊蓄の本なのである。

 最近、ウンチクとかトリビアとか、そういう「役に立ちそうで立たない知識」が評判のようだが、それは人に根源的に宿る知識欲求をくすぐっているからだろう。
 そしてそういう欲求に忠実に「知識」を追い求め、博物学に至ったのが、私が敬愛してやまない澁澤龍彦と荒俣宏だと思っている。

 この本に掲載されている本の中にはもちろん、花空=架空の花や植物もある。まったくもって、マニアックでお洒落な本ではないか。
 あらかじめ断っておきたい。
 私は音楽というものを語るだけのバックグラウンドが十分にある人間ではない。体系だって学んだ何かがそうそうある訳でもない。一般に「クラシック」というものには「習い事」として触れていたのであり、コネも金もたいした才能もない私はこれ以上続けてもせいぜいピアノの先生どまり、と、当時習っていた先生にいわれ、早々と断念したという経緯があるだけである。それは自覚の上での、読書の記録、と認識していただきたい。
 ショスタコーヴィチへの思い入れにしても、幾曲かの交響曲を聴いたということ、「森の歌」に合唱団として参加した、そのくらいである。
 しかも、久しぶりに丁寧に読もうと取り組んでいるので、おそらく分割して記録せざるを得ない。忘れた頃に次の章の記録をするかもしれない。
 
 1:真実の音楽を求めて
 2:わが人生と芸術の学校

 この証言は完全に時間軸にそっているでもなく、テーマが分別されているでもなく、ショスタコーヴィチの思い出自分語りの態である。そんなわけで、読者も年老いたショスタコーヴィチがつれづれなるままに語る話を傍らで聞いているような、そのような構成である。

 ショスタコーヴィチは決して裕福ではないが、それなりに芸術を愛するポーランド系の家庭に生まれる。彼は17の頃に、当時高名な芸術評論家の主催する映画館でピアノ弾きのバイトをしていた。金を稼ぐためである。しかし、その評論家は金を払おうとしないばかりか、
 
 「…かれは私にきわめて美しい、崇高な演説を行った。…給料を請求したりすることで、粗野で強欲で利己的な私の水準まで芸術を引き下げ、芸術を冒涜することになる。要するに、給料なんか請求するべきではない、という趣旨であった。…」
 「わたしはただひたすら芸術を憎んだ。芸術は嘔吐を催させた。」

 本当に、ショスタコーヴィチは、芸術を憎んでいるのか?
 …私はそうは思えない。彼の創作を聴く限り、彼は音楽に対する愛情を持っていると思われる。では、何を憎んだのだろうか。
 この疑問を胸に止めて読み進めてみよう…。

 彼はこうも語る。
 
 「ところで、わたしは自分に向けられる粗雑な態度に耐えられない。いわゆる『芸術家』がそのような態度をとるのにも。
 粗雑さと残虐さは、私がなによりも憎んでいる性質である。このふたつはたいてい結びついているが、その例の一つはスターリンである。
 レーニンは『スターリンの唯一の欠点は粗雑さである』と述べていた。スターリンが党書記長の地位にいたのは、粗雑さがとるに足りない欠点だからということで、それどころか粗雑さはむしろ勇気とほとんど同じものであった。しかし、その行き着いた果てがどのようなものだったかは、私たちは誰でも知っている。
 …しかも粗雑な人間は、政治であれ芸術であれ、どんな分野でもとにかく活躍する。…いたるところで独裁者、専制君主になろうと努め、あらゆる人間を圧迫しようと努めている。その結果は、普通はきわめて悲しいものとなるのである。
 …わたしがとりわけ憤慨させられるのは、これらの冷血漢の周囲に、つねに心底からの崇拝者と追随者がいるという事実である。」

 音楽学校時代の女子同級生ユージナについてはこう語っている。
「ユージナはどんな曲を弾いても『他の人とは違う』ものになる。大勢の男女の崇拝者たちはそれに気も狂わんばかりに惚れ込んでいた。わたし個人としてはm、彼女の演奏に納得できない点がたくさんあった。これはどういうことかと彼女に尋ねると、たいてい、『わたしはそう感じたの』というような答えが返ってくるのだった。いったい、ここにどんな哲学があるといえようか。
 …ユージナはいつでも超満員になるほどの聴衆を集めていた。彼女については聖女であると語る人が後を絶たない。
 私はけっして反宗教活動家ではなかった。信じたければ信じなさい、という立場である。しかしユージナは、自分が聖女あるいは女性の予言者である、と本気で信じていたようである。
 ユージナはいつも、まるで説教でもするかのように演奏していた。…ユージナのあらゆる振る舞いには、なにかしらわざとらしい、ヒステリーじみたものが非常にたくさんあった。」

 なるほど、私はこれらを目にして、すっかりショスタコーヴィチが大好きになってしまった。彼が憎むもの、嫌ってしまうものは、「崇拝」とか「心酔」ではないだろうか?
 芸術こそ生活よりも優先されるべき至上のものである、否。
 権威ある人物の発言はいつも正確な判断基準となる、否。
 党書記長は偉大な人格者であり尊敬すべき存在である、否。
 芸術は神のみ業である、否。
 劇的で神秘的でカリスマ性が、芸術家に必要である、否。

 ショスタコーヴィチは常に、「私は…思う」「わたしからすれば…」という、あらゆる判断にあくまで「自分個人の意見」という前置きを欠かさない。自分の発言が発言以上の意味(すなわち信仰のような状態)を引き起こすのを怖れているかのようである。

 絶対無二の価値は存在しない。
 あらゆる感想はあくまで自分の好みであって、異なる思想を糾弾する優位性もなければ、異なる思想から糾弾されるいわれもない。

 スターリン体制下のロシアで、愛国的作曲家として持ち上げられていたショスタコーヴィチは、その根底に、明らかな自由への意思を漲らせていた。

 
 とっても名著。

 まずこの著者が熱い。かといって直情的な訳ではなく、バランスよく熱心なのである。そして自分の理論を誇るよりはむしろ反省の気持ちの強いところに、筆者に対して好感が持てる。

 精神疾患、と銘打たれているが、臨床の現場で(外来でも入院でも)は医師ー患者関係の基本は「面接」なのである。この本は日常診療で患者と面接する立場であれば基本として押さえておくべき内容だ。
第一部:理論編
第二部:臨床編

に分かれているが、一般の方は第二部だったら飽きずに読めると思う。
 
 専門職の方は…きちんと理論編も読むといいと思う。すごく上手にまとまっているし、たとえが適切で分かりやすい。臨床編もいくつかの症例をもとに、分類(ICD-10)の手順や用語の使い方など解説も豊富である。

 「医療面接」に訪れる患者は誰でも常に何かしらの不安を抱えているものだ。精神疾患に限らず、すべての医療者は一度はこの本に触れておく方がいいかもしれない。

1 2 3