The 脱力系。

Amazonから「あなたへのオススメ」として紹介されていて、しかもちょっと割引中だったので買ってしまった。・・・魔が差したように。
(でも、なぜ、これがオススメに?みうらじゅんとか買ってたからか?)

「猫、ひろしの、ギャグ、百連発ー、にゃー!」
という割に、100も無い。
 幼稚園に飛び入りし、こどもたちは本気で怖がって泣くし、小学生の女の子は本気で逃げるし、巣鴨のおやじには「おまえはつまらない」って説教されるし。
 でも時々、思ったよりおもしろいこともあって「猫ひろしの、そのとき歴史が動いた!」はちょっと見直した。
 とにかく、軽く笑っていやされたいあなたに、ぜひ。
 たたみかけられると面白くなってしまう、例えて言うならTIMのレッドのネタみたいな感じかなあ。

 猫アレルギーではないあなたに、ぜひ。

夏至

2006年7月25日 活動写真集
ベトナム・ハノイの三姉妹が、母の命日に集まった。彼女たちはとても仲がよく、どんなことでも語り合ってきたが、それぞれ姉妹にさえ話せない、恋の秘密を抱えていた…。 『青いパパイヤの香り』で、そのデリケートな映像センスが注目されたトラン・アン・ユン監督作。不倫、妊娠、浮気などなど、さまざまな恋愛の形が、しっとりとした映像で描かれている。

 わたしが1年の中で一番好きな日を挙げるとしたら、それは誕生日でも記念日でもなく、「夏至」である。
 どうしようもなく、陽が長いのがよい。
 ぎりぎりまで間延びした昼が、たとえ予定がなくとも、なんともうきうきとした気持ちにさせてくれるし、夏に向かっていく過程での梅雨空の晴れ間、という奥ゆかしさもよい。
 
 外勤を終えて外に出て、既にとっぷりと陽が暮れて暗いときには、なんとも疲れ果てて1日がもう終わっちゃったと切ない気持ちになるのに、この時期はまだ日が高くて、もう少し、何か出来そうな気持ちになる。得した気分になる。
 それは幼少期、1年の1/4を薄暗く重い空の下で過ごしていたからか、日焼けは嫌いだけれど、陽の光はなんとなく愛着がある。そんなわけで「夏至」が過ぎてしまった今、この先短くなる一方の昼を忍びながら、とりあえず夏に向けて明るい夕方を謳歌してみる。

下妻物語

2006年6月6日 活動写真集
 わたしの仕事先の秘書さんは、ちょっと乙女チックなスーパーーオールドミスで、普段はとっても優しいいい人なのだが、数年前から更年期障害の影響なのか、気分や仕事ぶりにムラがあり、ときにわたしたちを苛立たせる。
 その乙女チックぶりとは、なんというかローラアシュレイというか、赤毛のアンというか、そういう感じ。
 先日、職場の先輩の結婚式があったのだが、その際の彼女の衣装は、ひとフレーズで言うと「田舎のちょっとした難事件もロッキングチェアに座って編み物をしたまま解決しちゃう感じ」であった。これには同席していた数人の力強い同意を得た。袖の膨らんだブラウス、ふくらはぎ途中迄のスカート、同じ生地のケープ、小さく丸いレンズの眼鏡…それはミス・マープルだった。

 そのマープルがこの間、前日の新聞を見ながら、
「あらーッ、下妻物語って昨日だったんだ〜。観ようと思ってたのに忘れちゃった?。」
なんていうものだから、なんだか無視しがたいではないか。

茨城県・下妻に住み、ぶりぶりのロリータ・ファッションに身を包んだ少女・桃子(深田恭子)がヤンキーのイチゴ(土屋アンナ)と出会い、数々の騒動に巻き込まれながらも強力な生き様を貫く、嶽本野ばら原作のハイパーパワフルな乙女たちの純情物語。 「私はマリー・アントワネットの生まれ変わり」という発言をしたフカキョン嬢をTVでみた監督が…


 今更だけど、好きな服も、好きな音楽も、好きな本も、好きな食べ物も、どうしたってその人の輪郭を浮かび上がらせてしまう。普段人前では、好きなものを語ることは難しい、恥ずかしいから。
 でも、桃子もイチゴも恥ずかしくない訳ですよ。好きなお洋服を着ていて幸せなのですよ、表現していることに自信を持っているわけですね、それが二人の仲の良さっていうか。
 わたしは先端でも末端でもないテキトーな服を着て、それも一日のなかで30分程度しか着ていなくて、一日のほとんどはユニフォームに身を包み、なるべく自分らしさから遠いところに身を置く日々である。だからこそ、ちょっぴり自分の衣装に自信を持っている人に、羨望と微妙さを感じざるを得ない、のが本音なところ。
 衣装は意匠の異称なんじゃないか、って少し思った。なんつって。
南アフリカの奥地で秘密任務遂行中に重傷を負い、記憶喪失に陥った特殊工作員ジャッキー。彼を助けた現地の村人たちから「フー・アム・アイ」と名付けられた彼は、本当の自分を知る手掛かりを求めて、オランダへと向かうのだが、彼の記憶をめぐって国際的な陰謀がうごめいていく…。


 山本未来そしてケインコスギ(絶対勝ちます!)まで出演していますが。
 記憶を失っても、体のキレは変わらず。ジャッキーならではの小道具やそこにある設備を自由自在に利用してのアクションは、単にパワー系アクション俳優が真似できない、ジャッキーならではの境地というもの。ロケの規模は世界的だけど、ジャッキーらしさは失わないといったところでしょうか?
 
 そしてわたし、こういう映画でも泣けるんです。酔拳?でも泣きますが、この映画ではやはり、ビルのてっぺんかなんかでどーしても記憶の戻らないジャッキーが「Who am Iー!!」って叫ぶところなんて、なんだかもうジャッキーがかわいそうでかわいそうで泣けてきます。
 決して名作の中にはランクインされることがないんだろうけれど、ジャッキーが国際化していく過程として、はずせない作品かと思いますが。
『ラッシュアワー』でハリウッド進出を果たした後の、ジャッキー初の恋愛アクション・コメディー。監督ビンセント・コク、共演は今やトップ女優の1人であるスー・チーや、永遠の色男トニー・レオンという異色の組み合わせで、ジャッキー映画の新境地を見事に切り開いている。


 「確かに彼はすばらしいアクションを持っているよ。でもアクション俳優であるジャッキーには、恋愛なんて演じられないのさ」

 と、本当にハリウッドスターあるいはその関係者、あるいはデーブ・スペクターあたりに言われたかどうかは定かではないが、わたし的にはジャッキー渾身の一作であると同時に、ジャッキーの魅力を余すところなく注がれているといっても過言ではない。(と思っている)

 ジャッキーがもともと持ち合わせているものはそのアクションの華麗さだけではない、コミカルさ(小道具の使い方含め)ももちろんだが、主人公はたいてい一度は敵キャラによって挫折を味わされ、それをラストに向けて克服していくものであるが、この『ゴージャス』については最初からラブコメモードである。
 しかも、はじめのジャッキーが、いきなり向かうところ敵なしの拳法家&ヒルズ族なみのヤンエグという人物設定なのも意外性充分だ。
 そんなジャッキーがどんな恋に落ち、どんな恋の駆け引きをして、または挫折して、そうして彼が何を選んで強くなり、何かを手にしていくか、そこら辺がみどころかと思う。
 そしてそれをとりまくすべてのキャラ(敵キャラも!)が実はいい人、というのもこの映画が安心するところだろう。
 っていうか、この映画見るたびに、トニー・レオン見たいなオカマの親友がほしくなるのです。
 
 その一見かっこ悪いかもしれないかっこよさ(基本的にわたしのツボであるが)、それがジャッキーの基本的魅力であり、そんな彼が恋に落ちて、かつアクションも見せてくれるのだから、こんなにお得な映画はないじゃないか、と思うんですけど、どうですかねー。
 
 この頭のかたちのとてもきれいなデビッド・スーシェは、ポワロにはまり役だったのだと思われる。

 ホームズと異なり、ポワロは恋多きひとだ。
 どうしても惹かれてしまう女賊を逃がしたこともあったっけ。

 思春期以前、そのメロドラマ性が嫌で、ほかにも薀蓄をたれたり変に潔癖症だったりと、そういう部分が、ホームズとともに形成された私にとっての「名探偵像」と大きく離脱していたように思えて、あまり好きじゃなかった。

 でも、もう少し時が経て、私に好みの奥行きが出てくる頃なると、彼の灰色の脳細胞を愛せるようになってくるわけだ。
 完璧さよりも、そのズレや駄目さを愛せるようなゆとりというか、鷹揚さというか、そのような「奥行き」。
 今では、「本当は結構出来る人なのに、ちょっとヘタレな3枚目」はむしろ愛すべきポイントとなっている。
 
 そしてポワロ最後の事件「カーテン」は、「ドルリーレーン最後の事件」と並んで、今読んでもやはり、胸が少し痛む。
  ¥78,200

 あー,これ欲しい!
 
 わたしが幼い頃,最初に出会った名探偵は彼でした。お熱をだしてふらふらなのに,土曜日の夜はテレビの前にしがみついて,「ホームズ観るまでは寝ないの!」と親に啖呵を切ったこともあったっけ。
 
 ホームズのかっこいいところは、女の気配がないことなのだと思う。その冷徹なまでの行き過ぎたフェミニズムが。
 
 NHKで放送されていたときは、ホームズ=露口茂、という渋い声のイメージだったのだけど、ジェレミー・ブレッドの生声を聞いたときはむしろ一瞬のギャップを感じたものです。
 後から思えば、ジェレミー・ブレッドといえば「マイ・フェア・レディ」でも変身後のイライザに、競馬場でビビビと恋に落ちてしまい、街中を踊り狂うというキュートでちょっとおばかな青年貴族をやっていたほどの舞台俳優ですもの、声には張りがあって、太くて、ちょっと大げさな物言いでも当然よね。

 それにしても高いわ。

CASSHERN

2004年12月6日 活動写真集
 生き急ぎ気味のわたしにとっては、このくらいのシーン転換とかはむしろ心地よいスピード感になる。このスピードによって、この映画はこの長さに収まったんじゃないだろうか。

 ごめんなさい、最初、「キャシャーン」のことを、「すごいよ!まさるさん」に出てくる、セクシーコマンドー部の仲間、「キャシャリン」と混同してました。なーんて、それはほんとに一瞬のことですけど。

 そこはアメリカが存在しない世界。大東亜連邦共和国の遺伝子工学の権威・東博士(寺尾總)は人体のスペアパーツを可能とする新造人間の開発に勤しんでいたが、その結果生まれたブライ(唐沢寿明)は人類に宣戦布告。博士は、自分に逆らい戦場に赴いて戦死した息子・鉄也(伊勢谷友介)を新造人間としてよみがえらせた…。

 なんといいますか、あくまで印象だけれども「ジャパニメーション」って感じですか?全体的にスチームパンクの印象は大友的で、多くを語らないスピードとアクションは押井的というか。

 多くを語らないというのは大事かも知れない。誰にでもないよう理解が可能である平易なものは「優越感」を生まないから。
 「ほかの人には分からないかもしれないど、あたしが感じる何か」っていうのが「おしゃれ」なのですね、きっと。そのためにはイメージ重視・荒唐無稽・説明極少が必須でしょう。「なんかうまくいえないけどーていうか説明できることじゃないと思うんだけどー『わかる』ていうか『共感できる』し『何か感じる』んだよねー」と言ったところでしょうか?
 説明過多なことは「おしゃれ」ではないようですね、残念っ!

 閑話休題。
 私が好きな映画の一つに「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」基い、「ブレードランナー」があるけれど、サイバーな社会構造で問題視されるのは「戦争」「公害」「人間以外の人権」という三種の神器みたいなものでしょうかね。これ、どれもキャシャーンにありましたね。

 正直なところ、あらゆる基本設定は世にすでに放出されているのです。あとは味付けですよね。語るべきものはすでに語られているのだし、未だ語られてないものには、ひとは耳を貸せないのです、理解できないでしょうから。
 あとはアニメ的・ゲーム的・古典SF的コンセプトをどう「おしゃれ」に味付けするか。それについては、この「キャシャーン」、わりと成功したといっても良いのではないかしら?

 
 
 
 いやー、最近はどこでも「ハウルの動く城」祭り。

 「観にいった〜」「観に行きた〜い」

 わたしはというと、そんな時間的余裕があったら、寝て・本読んで・お掃除と
お料理したいの!という感じなので、わたしがハウル〜に出会うのはずいぶん先
のことと思う。

 さて、とにかく、出れば大人気!の宮崎アニメですが、巷の声ではやはり、最
初の作品「風の谷のナウシカ」の人気が高いようで。

 数年前、部活の練習のあとに、何人かで牛丼屋に行ったとき、隣の席に座って
いたおにーちゃんたち(おそらく、「ヤンキー」と呼ばれるタイプの人たちね)
が、比較的大きな声でトークをなさっていて。
 「なんか〜こないださあ、○○センパイがぁ、」「だからはやく免許取れって
いってんじゃん」みたいな会話の合間に、
 
 『でもユパ様がぁ』

 …ちょっとまって、「ユパ様」?それってあの老練の剣士ですか?
 その後も彼らはいかに宮崎アニメにおいて「ナウシカ」がすばらしいかを語り
続けていた。彼らが店を出る頃には、彼らに対するなんともいえない「かわいい
ところもあるじゃないの!」という気持ちが芽生えていたのは言うまでもない。

 さてさて、ハウルはどこまで青少年の心の奥底に入り込めるのか?楽しみ。
 …数百年にわたって戦い続けてきた吸血鬼族と狼男族。そんな中、吸血鬼の女戦士セリーンは、狼男族がマイケルという人間の青年を執拗に追いかけていることに疑問を抱く。陰謀の匂いを嗅ぎ取ったセリーンは、狼男族同様、マイケルを追うが、やがてこのマイケルになぜか心惹かれていく。しかしマイケルがなんと狼男族の君主に噛まれてしまい……

 身のこなしの美しさ、というのは、マトリックスくらいからだろうか、マントではなくロングコートにて規定されている気がする。
 それはいずれにせよ衣服の「ひらめき」「ゆれ」「襞」だと思うのだが、ひらめきもゆれも、体動や風によって生まれる。
 
 内容に対する意見は「かっこいい」とか「おもしろい」とか「つまらない」などと様々だとは思うが、こーいう雰囲気の映画が好きな人の期待は決して裏切らないとは思いますがね。

 内容に触れないようにレビューしようとすると、どうにも難しい。つまらないことしか言えないようだ。

 とりあえず、続編がありそうな予感は、満載です、と。
1825年、オーストリアのウィーンで、1人の老人が自殺を図った。彼の名はアントニオ・サリエリ。かつて宮廷にその名をはせた音楽家である。そのサリエリが、天才モーツァルトとの出会いと、恐るべき陰謀を告白する。「モーツァルトは殺されたのでは…」。19世紀のヨーロッパに流れたこのミステリアスな噂をもとに…

 私がまだ音楽(クラシック)でご飯を食べていけたらいいな、と思ってピアノを弾いていた少女だった頃、モーツアルトはあまり好みではなかった。
 私はどうもその頃から「苦悩する天才」が好みだったらしく、その時代の音楽家たちの中ではベートーヴェンが好きだった。
 モーツアルトの音楽は、どんな曲調の楽曲でも不思議と軽やかさがあって、漠然と、しかし、まさに天上の音が降りてきた感じを受けていた。

 ノーテンキな天才は、愛されると同時にやはり憎まれるものである。
 天才を夢見て天才になれなかった、あるいは自分は天才にはなれないと気づく、内向的な秀才は、ノーテンキな天才を憎むよりほかに自分の平静を維持できないのであろう。…私はもちろん、内向的な秀才崩れ(あくまで「崩れ」だ。秀才と名乗れるほどの努力をしていないから)である。同じ道を究めようとした同士だからこそ、羨望と嫉妬、愛情と憎悪、敬遠と執着、あらゆるアンビバレントな感情を抱いてしまうのである。

 サリエリも天才だった。…モーツアルトが現れるまでは。彼は天才の素質があったからこそ若きモーツアルトの天才性に気づいたし、それを怖れもしたのだろう。サリエリが天才でなくなってしまったのは、モーツアルトを認めることで、「自分が天才ではない」という想念が取り憑いてしまったからだ。人は自分を盲目的に信じることができないとき、不安に陥り、人と比較し、ねたみ、内向するのだ。そうしたとき、人に宿る天才性は息を潜めてしまう。

 どんなにうだつが上がらなくても、貧しくても、病気でも、モーツアルトはいつも幸福そうだった。自分の能力を信じていたし、それを素直に誇りにしていた。自分に宿る能力が天才の条件だと思い込むことができていたし、その条件において、やはり彼は天才肌でもあった。

 正直なところ、「自分が天才だ」と盲目的に信じることができる人がうらやましい…たとえ根拠のない自信でも。盲目的に信じている人は、たいてい本番に強いタイプである。…もちろん私はいつも不安だし、本番にも弱い。

 あと、間違ってはいけないのは「天才肌」=「天才」ではないことだろう。どんなに自分に過剰なほどの自信があっても、やはり天才であるケースなどほんの一握り、どころかひとつまみほどなのである。…いや、それでも、やはり過剰に自信があるほうがいいかもしれない。たとえ周囲に不快感を与えても、自分はいつだって幸福でいられるから。

 なんだか、皮肉めいてきてしまった部分もあったが、とにかく、とにかく、言いたいのは。

 世のすべてのアマデウスに賞賛を。
 世のすべてのサリエリに友情を。そして、深い、愛情を。
 

 
…映画監督ロバート・ロドリゲスは、まるでセルジオ・レオーネとサム・ペキンパとクエンティン・タンティーノをいっしょくたにしたような超ヴァイオレンス、皆殺し映画を作った。…

 この前作にあたる「エル・マリアッチ」とかいう映画で使ったキャラや設定をさらに派手にしたらしい。こちらはみていない。
 実際、タランティーノは彼自信の作品にちょい役で出るのと同じように、盟友ロドリゲスのために集金人の役でちょっと出演して下ネタ語を連呼していた。…いやなに、タランティーノ映画には欠かせないものでしょう、下ネタ連発は。

 昔、結構な腕前のギター引きだったエル・マリアッチ(バンデラス)はメキシコマフィアのブチョに恋人を殺され、左手をつぶされ、ギターを銃に持ち替えて彼への復讐を誓い、そのために血まみれに生きる。そしてブチョの牛耳る町で美しい女と出会い、新たな愛を得、ブチョへの復讐の気持ちをあらたにするのだが…

 このおもしろさは、こんな私の駄文じゃ伝えられないってのが真実。でもあえて語ろう。
 さて、この映画で「最も暑苦しい男、アントニオ・バンデラス」が愛用している銃はスターム・ルガーとか言ったと思うが、この銃はバンデラスが愛用するとは思えないほど、意外にスタイリッシュな銃だと思う…いや、主観的な感想だが。

 この際はっきり言おう、…好きなんです、この映画。たとえ最後につじつまが合わなくても、血まみれでも、面白い、この一言につきるのです。

 まず、バンデラスを助ける「兄弟より大事な友人」であるブシェミ。彼がいい。私はブシェミのファンである。若干、板尾イツジに似ている気がする。濃厚なキャラは彼だけではない。
 バンデラスと絡むヒロインはサルマ・ハエックなのだが、彼女はとにかく色っぽい。ラテン・ラテン・ラテン。この二人がギター抱えて「二人の即興演奏を…」などと言い出すのだが、その後ギターなんてそっちのけで何の演奏をしたかは、賢明な大人なら安易に想像がつくでしょう…そう、サービスシーンですよ。これもラテンな濃厚さです。いつでもどこでも世の中には男と女。この二人はそれを体当たりで表現してくれていますねえ。

 ここだけは注目なのが、バンデラスが以前ギター弾きだったときに一緒にバンドを組んでいた「カンパ」と「キーノ」である。バンデラスがある町を牛耳る悪党ブチョに最後の戦いを挑む際、
 「最強の男たちだ…」とかいって呼び寄せたのだが、その際バンデラスは彼らへの電話でこう付け加える「…ギターケースを忘れるな」

 バンデラス自体、ギターケースを持った大きなメキシコ人が酒場に現れてはギターケースの中に隠し持ったたくさんの重火器類で酒場のごろつきどもをはじめバーテンダーまで皆殺しにする、という噂の持ち主だったのだから、カンパとキーノが忘れちゃいけないギターケースの中身は想像がつくというものだが、どっこい、現れたカンパとキーノはその想像を見事に超えてきてくれる。

 ギターケース一つを持った男、そして二つのギターケースを持った男…どちらがカンパでどちらがキーノかはわからないが、彼らを迎えたバンデラスがにやりとしながら
「また3人一緒だな…レッツプレイ。」
と言うや否や、ギターケースを二つ持った男は、そのヘッド部分からマシンガンを連射し、一つだけ持った男はそこからランチャーを発射する。バンデラスの武器は両手の拳銃だけだ。

 しかし間もなく、マシンガンの男は弾切れを狙われて撃たれ、死亡。その後ランチャ−の男もバンデラスが「隠れろ!」と言っているのに全くその忠告を聞かず、撃たれて死亡。…おやすみ、最強の男たちよ。

こんなにつじつまの合わないことを、どう考えてもギャグにしか見えないことを、命がけで、友情や愛をかけて、真剣にやってしまっているのがとにかく、かっこいいのだ。この顧みない突き抜け方は、男のロマンではないかと思うのだがどうだろうか。
 突っ込みどころ満載のアホっぽさと、それをがむしゃらにやってしまう男たちの暑苦しさに、最大限の拍手と、エールと、爆笑を私は送りたくなる、…いつも。