あああ、また副作用騒ぎですか。副作用ってどうしてもあるじゃないですか。車に乗れば事故にあうかもしれないし。でも便利だから使うでしょう?何もしないことも医療なんだよーんって思いもするけど、みんな何かをしてほしくて病院に来ちゃうでしょう、そうするととりあえず、「リウマチっぽいから、クスリ、のんでみます?」みたいな。で、「ハイ」って。そうすると、本当は適応症例じゃなくてもクスリを飲み続けて、副作用、って。
風邪ひいたって、抗生剤を出しまくっていたのは遠い過去なわけで、実際ウイルス感染の多い感冒に抗生剤が効果ないことはエビデンスがはっきりしているはずなのに、だから出さないのに、「出してもらえないんですか」なんて聞かれるんだもの、まるで処方しないと悪人のように。
でも、本当に危険で重大な副作用あるのかもしれないからね、リウマトレックス。アニマトリックスのパクリっぽい名前だけど、効果は絶大みたいだからね。本当にこの薬を必要としているリウマチのかたがたが、使えなくなって困っちゃうことの無いように願いますけど。RFだけがなんだか高値だからって処方されて、死亡例が増えないことを祈りますけど。
疲労がたまったから、ちょっと愚痴りたくもなるの。こんな夜は。
風邪ひいたって、抗生剤を出しまくっていたのは遠い過去なわけで、実際ウイルス感染の多い感冒に抗生剤が効果ないことはエビデンスがはっきりしているはずなのに、だから出さないのに、「出してもらえないんですか」なんて聞かれるんだもの、まるで処方しないと悪人のように。
でも、本当に危険で重大な副作用あるのかもしれないからね、リウマトレックス。アニマトリックスのパクリっぽい名前だけど、効果は絶大みたいだからね。本当にこの薬を必要としているリウマチのかたがたが、使えなくなって困っちゃうことの無いように願いますけど。RFだけがなんだか高値だからって処方されて、死亡例が増えないことを祈りますけど。
疲労がたまったから、ちょっと愚痴りたくもなるの。こんな夜は。
カーディガンズはそう,フリッパーズギターと同じくらい,思春期後半のわたしの日常にどっかりと存在していたのだけれど,そのトーレ・ヨハンソンが時をかける少女とコラボするとなれば,いろんな意味での期待が高まるのも仕方がないというもの。
「アンチ・不思議ちゃん」を陰ながら掲揚するわたしだが,憧れ含めてどうしてもなんだか好きな人というのはいて,その一人が原田知世である。おそらく妙齢な年であろうのに,みよ,このジャケットにおける膝小僧のかわいらしいこと!
まだ浅い春のころとか,初夏とか,そういうときのドライブに。特に軽井沢なんか行く時にはよく聴きながら,口ずさんだりしながら,車窓を流れる緑を追うのが良く似合う。そういうかんじ。
「アンチ・不思議ちゃん」を陰ながら掲揚するわたしだが,憧れ含めてどうしてもなんだか好きな人というのはいて,その一人が原田知世である。おそらく妙齢な年であろうのに,みよ,このジャケットにおける膝小僧のかわいらしいこと!
まだ浅い春のころとか,初夏とか,そういうときのドライブに。特に軽井沢なんか行く時にはよく聴きながら,口ずさんだりしながら,車窓を流れる緑を追うのが良く似合う。そういうかんじ。
メジャーデビューして,そこそこテレビに出る様になっても,どこかメジャーっぽくなさを残すバンドではあるが,わりとすき。
とくに,ちょっと古いけど,この「グラフティー」がお気に入り。
ボーカルがドラムっぽいといえばこのゴーイングアンダーグラウンド。
「ドラムっぽい」というのはルナシーでいえば真矢に当たるルックスというか。その微妙な垢抜けなさがメジャーっぽくなさとして表現されると同時にこのそこはかとない青春18切符な感じを体現するのかもしれない。
思春期に聞いていれば,大ファンになっていただろうと,ふと思う。
とくに,ちょっと古いけど,この「グラフティー」がお気に入り。
ボーカルがドラムっぽいといえばこのゴーイングアンダーグラウンド。
「ドラムっぽい」というのはルナシーでいえば真矢に当たるルックスというか。その微妙な垢抜けなさがメジャーっぽくなさとして表現されると同時にこのそこはかとない青春18切符な感じを体現するのかもしれない。
思春期に聞いていれば,大ファンになっていただろうと,ふと思う。
アロマシューズフレッシュナー ウサギ
2005年1月23日 私語としての仕事
一昨日は3時まで仕事。
昨日は8時から18時まで勉強会。
その後、今日の19時までお仕事。
この3日間で、8時間くらいしか眠れていない。
長時間のおしごとのときには、2足ある内履きを交代で使います。
そのとき、くたびれた方のくつを守ってくれるのがこのウサギたち。
癒されるのです。少しでも。
昨日は8時から18時まで勉強会。
その後、今日の19時までお仕事。
この3日間で、8時間くらいしか眠れていない。
長時間のおしごとのときには、2足ある内履きを交代で使います。
そのとき、くたびれた方のくつを守ってくれるのがこのウサギたち。
癒されるのです。少しでも。
この頭のかたちのとてもきれいなデビッド・スーシェは、ポワロにはまり役だったのだと思われる。
ホームズと異なり、ポワロは恋多きひとだ。
どうしても惹かれてしまう女賊を逃がしたこともあったっけ。
思春期以前、そのメロドラマ性が嫌で、ほかにも薀蓄をたれたり変に潔癖症だったりと、そういう部分が、ホームズとともに形成された私にとっての「名探偵像」と大きく離脱していたように思えて、あまり好きじゃなかった。
でも、もう少し時が経て、私に好みの奥行きが出てくる頃なると、彼の灰色の脳細胞を愛せるようになってくるわけだ。
完璧さよりも、そのズレや駄目さを愛せるようなゆとりというか、鷹揚さというか、そのような「奥行き」。
今では、「本当は結構出来る人なのに、ちょっとヘタレな3枚目」はむしろ愛すべきポイントとなっている。
そしてポワロ最後の事件「カーテン」は、「ドルリーレーン最後の事件」と並んで、今読んでもやはり、胸が少し痛む。
ホームズと異なり、ポワロは恋多きひとだ。
どうしても惹かれてしまう女賊を逃がしたこともあったっけ。
思春期以前、そのメロドラマ性が嫌で、ほかにも薀蓄をたれたり変に潔癖症だったりと、そういう部分が、ホームズとともに形成された私にとっての「名探偵像」と大きく離脱していたように思えて、あまり好きじゃなかった。
でも、もう少し時が経て、私に好みの奥行きが出てくる頃なると、彼の灰色の脳細胞を愛せるようになってくるわけだ。
完璧さよりも、そのズレや駄目さを愛せるようなゆとりというか、鷹揚さというか、そのような「奥行き」。
今では、「本当は結構出来る人なのに、ちょっとヘタレな3枚目」はむしろ愛すべきポイントとなっている。
そしてポワロ最後の事件「カーテン」は、「ドルリーレーン最後の事件」と並んで、今読んでもやはり、胸が少し痛む。
シャーロック・ホームズの冒険
2005年1月12日 活動写真集
¥78,200
あー,これ欲しい!
わたしが幼い頃,最初に出会った名探偵は彼でした。お熱をだしてふらふらなのに,土曜日の夜はテレビの前にしがみついて,「ホームズ観るまでは寝ないの!」と親に啖呵を切ったこともあったっけ。
ホームズのかっこいいところは、女の気配がないことなのだと思う。その冷徹なまでの行き過ぎたフェミニズムが。
NHKで放送されていたときは、ホームズ=露口茂、という渋い声のイメージだったのだけど、ジェレミー・ブレッドの生声を聞いたときはむしろ一瞬のギャップを感じたものです。
後から思えば、ジェレミー・ブレッドといえば「マイ・フェア・レディ」でも変身後のイライザに、競馬場でビビビと恋に落ちてしまい、街中を踊り狂うというキュートでちょっとおばかな青年貴族をやっていたほどの舞台俳優ですもの、声には張りがあって、太くて、ちょっと大げさな物言いでも当然よね。
それにしても高いわ。
あー,これ欲しい!
わたしが幼い頃,最初に出会った名探偵は彼でした。お熱をだしてふらふらなのに,土曜日の夜はテレビの前にしがみついて,「ホームズ観るまでは寝ないの!」と親に啖呵を切ったこともあったっけ。
ホームズのかっこいいところは、女の気配がないことなのだと思う。その冷徹なまでの行き過ぎたフェミニズムが。
NHKで放送されていたときは、ホームズ=露口茂、という渋い声のイメージだったのだけど、ジェレミー・ブレッドの生声を聞いたときはむしろ一瞬のギャップを感じたものです。
後から思えば、ジェレミー・ブレッドといえば「マイ・フェア・レディ」でも変身後のイライザに、競馬場でビビビと恋に落ちてしまい、街中を踊り狂うというキュートでちょっとおばかな青年貴族をやっていたほどの舞台俳優ですもの、声には張りがあって、太くて、ちょっと大げさな物言いでも当然よね。
それにしても高いわ。
重慶飯店 タピオカ入りココナッツミルク
2004年12月27日 グルメを巡る
どうしてたまに、ふとしたときに、
「ココナツミルクさえあれば生きていけるんじゃないかしら」
なんて思ってしまうのだろう。
きっとたまにだからおいしいし、また次に食べたくなるとは分かっているけれど、ココナツミルクは幸せな味がすると思う。
「ココナツミルクさえあれば生きていけるんじゃないかしら」
なんて思ってしまうのだろう。
きっとたまにだからおいしいし、また次に食べたくなるとは分かっているけれど、ココナツミルクは幸せな味がすると思う。
/04 坂本龍一
2004年12月25日 invention and sinphonia
理由を問われても分からないが、「私の好きな曲」と「ヒット曲」には僅かなズレがいつも横たわっていて、この坂本龍一で言えば、「美貌の青空」が好きで「戦場のメリークリスマス」がヒット曲で、みたいなものだ。
最初の感想は、「何故この時期にこのアルバムを?」であった。
このタイトル、「04」から彷彿とするのは「1996」である。彼はまるで足跡を確かめるように、数字に回帰し、総括しているようだ。
世間が「メリクリ」などと浮かれている今夜まさにいま、わたしは仕事中である。しかもそれは決して喜ばしい仕事ではなく、奉仕的であり、自己抑制的であり、いわゆる「3K」であるわけだ。
さて、疲労して、「浮かれ」を外界に感じながら、沈静すべく自分の休息時間へ潜水していくとき、「04」を聞く。
それがどのくらい似合いかというと、…東儀秀樹あたりを聞きながらじっと暗闇に息を潜めて蛍の群舞を観ているときと同じくらいだろうか。
何故、と問うことすら今夜は無粋なのだろうけど。
彼の音楽は常にわたしに「絶望」を意識させる。堕ちていく喜びを見せる。
単に救いではなく、「絶望の存在を諾とする」その突き放すようで世界の果てで実は受け止めているような、絶望感に「浸ることを許される」気がするのだ。
睡眠不足で頭も体も消耗した日は、とかく言わずもがななことばかりが口をついて出るようだ。
とりあえず、ゆっくりと浮上して、もう少しだけ労働し、今度は短いけれど眠りの淵へ潜水しようか。
最初の感想は、「何故この時期にこのアルバムを?」であった。
このタイトル、「04」から彷彿とするのは「1996」である。彼はまるで足跡を確かめるように、数字に回帰し、総括しているようだ。
世間が「メリクリ」などと浮かれている今夜まさにいま、わたしは仕事中である。しかもそれは決して喜ばしい仕事ではなく、奉仕的であり、自己抑制的であり、いわゆる「3K」であるわけだ。
さて、疲労して、「浮かれ」を外界に感じながら、沈静すべく自分の休息時間へ潜水していくとき、「04」を聞く。
それがどのくらい似合いかというと、…東儀秀樹あたりを聞きながらじっと暗闇に息を潜めて蛍の群舞を観ているときと同じくらいだろうか。
何故、と問うことすら今夜は無粋なのだろうけど。
彼の音楽は常にわたしに「絶望」を意識させる。堕ちていく喜びを見せる。
単に救いではなく、「絶望の存在を諾とする」その突き放すようで世界の果てで実は受け止めているような、絶望感に「浸ることを許される」気がするのだ。
睡眠不足で頭も体も消耗した日は、とかく言わずもがななことばかりが口をついて出るようだ。
とりあえず、ゆっくりと浮上して、もう少しだけ労働し、今度は短いけれど眠りの淵へ潜水しようか。
小さなお茶会 猫十字社
2004年12月23日 古代人の涙壺
初めて読んだのは中学生の頃で、冬になるとなんだか読みたくなる漫画である。左に立つ大きなふかふか猫は詩人(詩猫?)の「もっぷ」であり、右に立つのはその妻の「ぷりん」なのだが、この2人、かなりうらやましいスローライフを過ごしているのである。
この漫画には「乾杯糖」というエピソードがあって、確か、「クリスマスの夜に子供たちは早く寝て、大人たちが楽しく乾杯してグラスをカチリと重ねあうと、そこから金平糖が飛び出し、それを乾杯糖という
。子供たちは翌朝以降、それをおやつにしてホットミルクに浮かべたりする」などという話だったと記憶している。
「神聖・モテモテ王国」という漫画の中で「ナオン(女)にもてるにはメルヘンじゃよー」などという発言があった。
しかし、実際にメルヘンな女はやや「不思議ちゃん」であって、斯く言う私は「メルヘン」から最も遠い精神構造と職業で日々を送っている次第だ。
それでも、冬になると「メルヘン」が恋しくなる。どんなにプラグマティズムに基づく行動をとる友人からも、ときに「メルヘン」の話題が飛び出す。そして、やっぱり大多数の女は「ディズニーランド」が大好きだ。
女はその母性の中に「メルヘン」たるものを潜ませているのだろうか。同時に背反するような「現実主義」を抱えて。
まあまあ、私ごときが「メルヘン」を語ろうというのがおこがましいというのは百も承知ではあるが。
話は変わって、この漫画が文庫化した際に、巻末に「解説」が付記されている。1巻だったか、2巻だったか、それは失念してしまったが、歌人・森島章人氏の解説があった。
氏はまさにかつての私の師であったはずなのだが、適当な学生生活を送っていた私のことなど、森島先生は覚えておられないであろう。
その後、森島先生の「アントナン・アルトー本」など読むにつけ、もっとコンタクトを取りやすい学生時代に熱心な学生であるべきだったと後悔している。それでも執念深くその「アルトー本」にサインのみならず短歌を記していただくという勝手な、ぶしつけなお願いを、しかも後輩を通じてやってのけてしまったのだが、その詳細はまた後日語ることとしたい。
さて、どのような性質によるか、だらだらと堅苦しい駄文を書き連ねたが、本当は「小さなお茶会」のエピソードたちにほっと心を温かくすることのある、実は「メルヘン好き」でもあるのです。本当は詩人になりたかった、と、ヘッセの様な一言を残して、今日はホットミルクを飲むつもり。
この漫画には「乾杯糖」というエピソードがあって、確か、「クリスマスの夜に子供たちは早く寝て、大人たちが楽しく乾杯してグラスをカチリと重ねあうと、そこから金平糖が飛び出し、それを乾杯糖という
。子供たちは翌朝以降、それをおやつにしてホットミルクに浮かべたりする」などという話だったと記憶している。
「神聖・モテモテ王国」という漫画の中で「ナオン(女)にもてるにはメルヘンじゃよー」などという発言があった。
しかし、実際にメルヘンな女はやや「不思議ちゃん」であって、斯く言う私は「メルヘン」から最も遠い精神構造と職業で日々を送っている次第だ。
それでも、冬になると「メルヘン」が恋しくなる。どんなにプラグマティズムに基づく行動をとる友人からも、ときに「メルヘン」の話題が飛び出す。そして、やっぱり大多数の女は「ディズニーランド」が大好きだ。
女はその母性の中に「メルヘン」たるものを潜ませているのだろうか。同時に背反するような「現実主義」を抱えて。
まあまあ、私ごときが「メルヘン」を語ろうというのがおこがましいというのは百も承知ではあるが。
話は変わって、この漫画が文庫化した際に、巻末に「解説」が付記されている。1巻だったか、2巻だったか、それは失念してしまったが、歌人・森島章人氏の解説があった。
氏はまさにかつての私の師であったはずなのだが、適当な学生生活を送っていた私のことなど、森島先生は覚えておられないであろう。
その後、森島先生の「アントナン・アルトー本」など読むにつけ、もっとコンタクトを取りやすい学生時代に熱心な学生であるべきだったと後悔している。それでも執念深くその「アルトー本」にサインのみならず短歌を記していただくという勝手な、ぶしつけなお願いを、しかも後輩を通じてやってのけてしまったのだが、その詳細はまた後日語ることとしたい。
さて、どのような性質によるか、だらだらと堅苦しい駄文を書き連ねたが、本当は「小さなお茶会」のエピソードたちにほっと心を温かくすることのある、実は「メルヘン好き」でもあるのです。本当は詩人になりたかった、と、ヘッセの様な一言を残して、今日はホットミルクを飲むつもり。
サマー・アポカリプス 笠井 潔
2004年12月21日 古代人の涙壺
現象学だとかテロリズムだとか、私が良く分からない60年代の風合い色濃い笠井作品で、「現象学的殺人事件ラブコメ・カケル&ナディア」のシリーズ、確か3作目にあたるんじゃなかったんだろうか。
そして、この笠井氏はどうやら私が現在在住しているのと同県にいるらしいのだが、未だ邂逅できてはいないでいる。
さて、それはともかくこの師走といえば、忘年会シーズンである。普段は大勢で騒ぎなれない人も、精一杯の笑顔でお酌をして回るなんていう、古式ゆかしいイベントだ。
先だっても、忘年会の席にて、遅刻してしまった先輩がいた。宴はもはや終盤にさしかかっており、駆けつけ3杯どころではこの会場のグダグダ感にはついていけはしないという状況だった。まーあルーチンに尺でもするか、と思って近づくと、すでに瓶ビールをラッパのみしていた。
「いきなりラッパですか」
「ラッパだよ、ラッパ。七人の御使い、ってさ」
「…ある意味、ニガヨモギですかね。ビールのホップとか」
「おお、なかなかうまいこと言うねえ」
突然の意味不明なネタフリにも動じない、それが私の先輩への敬意の表しかたではあるが、年末とはいえ、ヨハネのアポカリプスについての発言が出るのは予測不可能であった。
その後、別の大先輩、マキャベリストによる「ヨハネ黙示録」
の講義が続く。
そして結局、この続巻の「哲学者の密室」に至っては、何度か挑戦したものの未だに読了できていないのだ、根性が無いからね。
そして、この笠井氏はどうやら私が現在在住しているのと同県にいるらしいのだが、未だ邂逅できてはいないでいる。
さて、それはともかくこの師走といえば、忘年会シーズンである。普段は大勢で騒ぎなれない人も、精一杯の笑顔でお酌をして回るなんていう、古式ゆかしいイベントだ。
先だっても、忘年会の席にて、遅刻してしまった先輩がいた。宴はもはや終盤にさしかかっており、駆けつけ3杯どころではこの会場のグダグダ感にはついていけはしないという状況だった。まーあルーチンに尺でもするか、と思って近づくと、すでに瓶ビールをラッパのみしていた。
「いきなりラッパですか」
「ラッパだよ、ラッパ。七人の御使い、ってさ」
「…ある意味、ニガヨモギですかね。ビールのホップとか」
「おお、なかなかうまいこと言うねえ」
突然の意味不明なネタフリにも動じない、それが私の先輩への敬意の表しかたではあるが、年末とはいえ、ヨハネのアポカリプスについての発言が出るのは予測不可能であった。
その後、別の大先輩、マキャベリストによる「ヨハネ黙示録」
の講義が続く。
そして結局、この続巻の「哲学者の密室」に至っては、何度か挑戦したものの未だに読了できていないのだ、根性が無いからね。
最近、なんとなくやってみたら意外といい感じだったモノマネは「はい、ドア、閉まりまーす」だった。
それはともかく、以前、予備校に通うときに利用していたのが中央線だったのだが、結局その後進路が決まってからも中央線を利用する機会が多い。でないと、地方都市の住人は東京砂漠に到達できないのだ。
そして、矢野顕子の物まねといえば「清水ミチコ」を思い出すのだけど、みっちゃんは最近やらないなあ、これ。
それはともかく、以前、予備校に通うときに利用していたのが中央線だったのだが、結局その後進路が決まってからも中央線を利用する機会が多い。でないと、地方都市の住人は東京砂漠に到達できないのだ。
そして、矢野顕子の物まねといえば「清水ミチコ」を思い出すのだけど、みっちゃんは最近やらないなあ、これ。
充実野菜 モロヘイヤ&緑の野菜 190g缶[野菜ジュース] 伊藤園
2004年12月15日 グルメを巡る
忙しくて、大切な電話もままならないほど眠い夜が続くのだけど、それでもこういう「野菜ジュース」なんていうジャンクでヘルシーな心がけによるのか、風邪を引き始めても長引かない。緊張してる日々だからかしらと思っては見るけど、まだまだ続きそう。
生き急ぎ気味のわたしにとっては、このくらいのシーン転換とかはむしろ心地よいスピード感になる。このスピードによって、この映画はこの長さに収まったんじゃないだろうか。
ごめんなさい、最初、「キャシャーン」のことを、「すごいよ!まさるさん」に出てくる、セクシーコマンドー部の仲間、「キャシャリン」と混同してました。なーんて、それはほんとに一瞬のことですけど。
そこはアメリカが存在しない世界。大東亜連邦共和国の遺伝子工学の権威・東博士(寺尾總)は人体のスペアパーツを可能とする新造人間の開発に勤しんでいたが、その結果生まれたブライ(唐沢寿明)は人類に宣戦布告。博士は、自分に逆らい戦場に赴いて戦死した息子・鉄也(伊勢谷友介)を新造人間としてよみがえらせた…。
なんといいますか、あくまで印象だけれども「ジャパニメーション」って感じですか?全体的にスチームパンクの印象は大友的で、多くを語らないスピードとアクションは押井的というか。
多くを語らないというのは大事かも知れない。誰にでもないよう理解が可能である平易なものは「優越感」を生まないから。
「ほかの人には分からないかもしれないど、あたしが感じる何か」っていうのが「おしゃれ」なのですね、きっと。そのためにはイメージ重視・荒唐無稽・説明極少が必須でしょう。「なんかうまくいえないけどーていうか説明できることじゃないと思うんだけどー『わかる』ていうか『共感できる』し『何か感じる』んだよねー」と言ったところでしょうか?
説明過多なことは「おしゃれ」ではないようですね、残念っ!
閑話休題。
私が好きな映画の一つに「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」基い、「ブレードランナー」があるけれど、サイバーな社会構造で問題視されるのは「戦争」「公害」「人間以外の人権」という三種の神器みたいなものでしょうかね。これ、どれもキャシャーンにありましたね。
正直なところ、あらゆる基本設定は世にすでに放出されているのです。あとは味付けですよね。語るべきものはすでに語られているのだし、未だ語られてないものには、ひとは耳を貸せないのです、理解できないでしょうから。
あとはアニメ的・ゲーム的・古典SF的コンセプトをどう「おしゃれ」に味付けするか。それについては、この「キャシャーン」、わりと成功したといっても良いのではないかしら?
ごめんなさい、最初、「キャシャーン」のことを、「すごいよ!まさるさん」に出てくる、セクシーコマンドー部の仲間、「キャシャリン」と混同してました。なーんて、それはほんとに一瞬のことですけど。
そこはアメリカが存在しない世界。大東亜連邦共和国の遺伝子工学の権威・東博士(寺尾總)は人体のスペアパーツを可能とする新造人間の開発に勤しんでいたが、その結果生まれたブライ(唐沢寿明)は人類に宣戦布告。博士は、自分に逆らい戦場に赴いて戦死した息子・鉄也(伊勢谷友介)を新造人間としてよみがえらせた…。
なんといいますか、あくまで印象だけれども「ジャパニメーション」って感じですか?全体的にスチームパンクの印象は大友的で、多くを語らないスピードとアクションは押井的というか。
多くを語らないというのは大事かも知れない。誰にでもないよう理解が可能である平易なものは「優越感」を生まないから。
「ほかの人には分からないかもしれないど、あたしが感じる何か」っていうのが「おしゃれ」なのですね、きっと。そのためにはイメージ重視・荒唐無稽・説明極少が必須でしょう。「なんかうまくいえないけどーていうか説明できることじゃないと思うんだけどー『わかる』ていうか『共感できる』し『何か感じる』んだよねー」と言ったところでしょうか?
説明過多なことは「おしゃれ」ではないようですね、残念っ!
閑話休題。
私が好きな映画の一つに「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」基い、「ブレードランナー」があるけれど、サイバーな社会構造で問題視されるのは「戦争」「公害」「人間以外の人権」という三種の神器みたいなものでしょうかね。これ、どれもキャシャーンにありましたね。
正直なところ、あらゆる基本設定は世にすでに放出されているのです。あとは味付けですよね。語るべきものはすでに語られているのだし、未だ語られてないものには、ひとは耳を貸せないのです、理解できないでしょうから。
あとはアニメ的・ゲーム的・古典SF的コンセプトをどう「おしゃれ」に味付けするか。それについては、この「キャシャーン」、わりと成功したといっても良いのではないかしら?
いやー、最近はどこでも「ハウルの動く城」祭り。
「観にいった〜」「観に行きた〜い」
わたしはというと、そんな時間的余裕があったら、寝て・本読んで・お掃除と
お料理したいの!という感じなので、わたしがハウル〜に出会うのはずいぶん先
のことと思う。
さて、とにかく、出れば大人気!の宮崎アニメですが、巷の声ではやはり、最
初の作品「風の谷のナウシカ」の人気が高いようで。
数年前、部活の練習のあとに、何人かで牛丼屋に行ったとき、隣の席に座って
いたおにーちゃんたち(おそらく、「ヤンキー」と呼ばれるタイプの人たちね)
が、比較的大きな声でトークをなさっていて。
「なんか〜こないださあ、○○センパイがぁ、」「だからはやく免許取れって
いってんじゃん」みたいな会話の合間に、
『でもユパ様がぁ』
…ちょっとまって、「ユパ様」?それってあの老練の剣士ですか?
その後も彼らはいかに宮崎アニメにおいて「ナウシカ」がすばらしいかを語り
続けていた。彼らが店を出る頃には、彼らに対するなんともいえない「かわいい
ところもあるじゃないの!」という気持ちが芽生えていたのは言うまでもない。
さてさて、ハウルはどこまで青少年の心の奥底に入り込めるのか?楽しみ。
「観にいった〜」「観に行きた〜い」
わたしはというと、そんな時間的余裕があったら、寝て・本読んで・お掃除と
お料理したいの!という感じなので、わたしがハウル〜に出会うのはずいぶん先
のことと思う。
さて、とにかく、出れば大人気!の宮崎アニメですが、巷の声ではやはり、最
初の作品「風の谷のナウシカ」の人気が高いようで。
数年前、部活の練習のあとに、何人かで牛丼屋に行ったとき、隣の席に座って
いたおにーちゃんたち(おそらく、「ヤンキー」と呼ばれるタイプの人たちね)
が、比較的大きな声でトークをなさっていて。
「なんか〜こないださあ、○○センパイがぁ、」「だからはやく免許取れって
いってんじゃん」みたいな会話の合間に、
『でもユパ様がぁ』
…ちょっとまって、「ユパ様」?それってあの老練の剣士ですか?
その後も彼らはいかに宮崎アニメにおいて「ナウシカ」がすばらしいかを語り
続けていた。彼らが店を出る頃には、彼らに対するなんともいえない「かわいい
ところもあるじゃないの!」という気持ちが芽生えていたのは言うまでもない。
さてさて、ハウルはどこまで青少年の心の奥底に入り込めるのか?楽しみ。
シャーロック・ホームズの記号論―C.S.パースとホームズの比較研究
2004年11月23日 古代人の涙壺
学生時代から、今に至るまで、「どーしてこの職業を選んだんだろう?」って思うことしきりなのだけど、この本を読むとうまい具合にだまされるようで、ホームズのような探偵になるのはかなり難しいけれど、こういう形で推理というかこの本における記号論を展開したくて私、この道に進んだのだわと思うと、また今日も夜から、明日も夜まで、ちょっとがんばろうという気持ちになれるというもの。
外はまぶしいくらいに上天気だけど、結局たまのお休みは「休む」ことに終始してまた労働にいそしむことになりそう。ああでも外はやっぱり上天気で、私はちょっと恨めしそうに窓の外を仰ぎ見る、今日も文化的活動なんて、ほとんど何もしなかったわ。
外はまぶしいくらいに上天気だけど、結局たまのお休みは「休む」ことに終始してまた労働にいそしむことになりそう。ああでも外はやっぱり上天気で、私はちょっと恨めしそうに窓の外を仰ぎ見る、今日も文化的活動なんて、ほとんど何もしなかったわ。
おまえが世界をこわしたいなら 下 藤原 薫
2004年11月17日 古代人の涙壺
「世界」、とは、何?
おそらく、このストーリーの中での「おまえが壊したい『世界』」というのは、『犬神』で壊れてしまった社会としての「世界」ではなくて、概念としてある特定の人物間における関係性を表現するところの「世界」であると思われる。それは、登場人物たちの行動が、外へ放散する破壊活動ではなく、自分あるいは自分の分身への内向的な攻撃のかたちをとっているからだ。
あー、どうも頭が固い感じ。
このストーリー上での破壊行動について、わたしはさきほど「攻撃対象は自分あるいは自分の分身」と書いてみた。
恋愛は、「愛し合う」状態である。愛している、という状態は「片思い」と表現されるとしよう。
この『合う』がミソと思われる。
恋人たちは「愛し合い」「求め合い」「理解しあい」「抱き合い」する必要がある。一方的では恋愛にならないのだ、自分が相手にするように相手が自分にしてくれなければ!
もっとも身近な他者、恋人。
いかにして他者を認知するか、己の一部として?やはり他者として?
なんだか不本意な内容で終わりそうだけど、今は頭がまとまらないのでこの辺で。
おそらく、このストーリーの中での「おまえが壊したい『世界』」というのは、『犬神』で壊れてしまった社会としての「世界」ではなくて、概念としてある特定の人物間における関係性を表現するところの「世界」であると思われる。それは、登場人物たちの行動が、外へ放散する破壊活動ではなく、自分あるいは自分の分身への内向的な攻撃のかたちをとっているからだ。
あー、どうも頭が固い感じ。
このストーリー上での破壊行動について、わたしはさきほど「攻撃対象は自分あるいは自分の分身」と書いてみた。
恋愛は、「愛し合う」状態である。愛している、という状態は「片思い」と表現されるとしよう。
この『合う』がミソと思われる。
恋人たちは「愛し合い」「求め合い」「理解しあい」「抱き合い」する必要がある。一方的では恋愛にならないのだ、自分が相手にするように相手が自分にしてくれなければ!
もっとも身近な他者、恋人。
いかにして他者を認知するか、己の一部として?やはり他者として?
なんだか不本意な内容で終わりそうだけど、今は頭がまとまらないのでこの辺で。
ハヤブサ スピッツ
2004年11月12日 invention and sinphonia
鹿児島出身の年上だけど後輩のNは、入部まもなくのころ「薩摩隼人」への想念的質問として「やっぱり『おいドンは〜でゴワス』とかいっちゃうの?」と背の高い、ちょっときれいな女先輩に聞かれ、「いや、『薩摩のサムライはくっべたで言い訳もしもはん』です」と答え、飲み会会場全体の笑いを掻っ攫っていったものだった。その方言自体の信憑性も定かではないが。
ともかく、アルバムタイトル『隼』に対して、収録曲に「8823」があって、あーこれがハヤブサってことね、と後から思った。はとやの「4126(よいふろ)」と同じ。
スピッツは実は以前から好きなのだが、わたしのベスト3に、この『8823』はランクインする。
このアルバムは、スピッツ好きの友人からもらった。「なんか、スピッツのイメージと違うわ。もらっとけ」
サビは確かこんな感じ。
この『きみを自由にできるのは』というのは、「きみをおもいどおりにしていいのは」という意味なのか、「きみを何らかの囚われから救いだせるのは」という意味なのか、今でもわからない。また、もしかしたらどちらの意味もあるかも、と思っている。
このアルバムをくれた友人同様、スピッツのファンからは一部、「駄作」の烙印を押されているようだ。「スピッツらしくない」という批評ね、いいじゃないですか、きっとマサムネ君も「今は振り向かずわらって」いることと思う。
迫り来る疾走感、それが好きなところ。屑と呼ばれても笑い飛ばして駆け抜けていくヘタレだけどまっすぐな少年らしさ、不器用さ、そうして終わりに向かっていくにしたがってバンド全体のテンションが上がってゆく感じがするのも、なんだか微笑ましくて、夜の川沿いの桜並木を意味もなく駆け出したくなる、そういう曲。
ともかく、アルバムタイトル『隼』に対して、収録曲に「8823」があって、あーこれがハヤブサってことね、と後から思った。はとやの「4126(よいふろ)」と同じ。
スピッツは実は以前から好きなのだが、わたしのベスト3に、この『8823』はランクインする。
このアルバムは、スピッツ好きの友人からもらった。「なんか、スピッツのイメージと違うわ。もらっとけ」
サビは確かこんな感じ。
誰よりも早く駆け抜け LOVEと絶望の果てにとどけ
きみを自由にできるのは宇宙でただ一人だけ
今は振り向かず8823 屑と呼ばれても笑う
そしてきみを自由にできるのは宇宙でただひとりだけ
この『きみを自由にできるのは』というのは、「きみをおもいどおりにしていいのは」という意味なのか、「きみを何らかの囚われから救いだせるのは」という意味なのか、今でもわからない。また、もしかしたらどちらの意味もあるかも、と思っている。
このアルバムをくれた友人同様、スピッツのファンからは一部、「駄作」の烙印を押されているようだ。「スピッツらしくない」という批評ね、いいじゃないですか、きっとマサムネ君も「今は振り向かずわらって」いることと思う。
迫り来る疾走感、それが好きなところ。屑と呼ばれても笑い飛ばして駆け抜けていくヘタレだけどまっすぐな少年らしさ、不器用さ、そうして終わりに向かっていくにしたがってバンド全体のテンションが上がってゆく感じがするのも、なんだか微笑ましくて、夜の川沿いの桜並木を意味もなく駆け出したくなる、そういう曲。
おまえが世界をこわしたいなら 上 (1) 藤原 薫
2004年11月11日 古代人の涙壺
たいていの大判コミックは、普段雑誌をチェックしないわたしにとっては、ジャケ買いせざるをえないものの一つである。
藤原薫との出会いもそのようなものであった。
全然関係ない話のようであるが、わたしがビバヒル(ビバリーヒルズ高校〜青春白書)を観ていた頃、最も印象深い話は「ブランドンとケリーが愛し合いながらもすべての行動が裏目に出て、相手は誤解し、また自分は邪推しまくり、結局はすれ違い続ける」というストーリーであった。…性格が悪いのかしら?
それは、単に面白いということで印象深いのではなくて、「すれ違い」という状態に至る、「仕方のなさ」に絶望したからである。その後、わたしは東浩樹氏の著書に触れて、それが「郵便的不安」とも言えるものだと知るのであるが。
ナゼすれ違うのか?誤解するのか?邪推するのか?
「すれ違う」という言葉には大前提として「理解しあうべき・本当は愛し合っている二人」が横たわっている。「誤解」「邪推」の背後には「伝わるべき善意」が存在している。
本当は愛し合っていたり、善意があるのであれば、何故それは歪み捩れてゆくのだろうか。愛が、善意が、そのまま伝われば良いではないか!
『あのこどもが遊んでいるきらきらしたもの、あれを止めることができれば…』
唐突に、この漫画の一文に戻る。
この漫画においても、主人公2人は重なり続ける宿命と互いへの強い愛情を持ちながらすれ違い続けるのである。
彼らは単にすれ違うのではない。彼らはある事情から永遠の生命を持っているのであるが、どんなに転生を重ねても彼らは出会い、また相手を殺すのである。殺した側は永遠の生命があるため、また相手が転生するのを待つことになる。そして、転生してきた相手がまた自分を殺す。今度は自分が転生し、相手を…。
それは湖のほとりで突然に受けた天啓のように永遠回帰する哀しみである。
さて、誰が言っていたかは定かではないが、死は生の終焉であると同時に、最も生を意識する瞬間でもある。死があるからこそ生が意識される。死は人生最大のドラマである。
古今東西、描かれてきた激しい愛憎の、はじまりや結末が死であることは多い。真の愛=生命をかける感情、ということの真偽についてはここでは保留し、そう描かれることが多いということ・そういうイメージが一般に浸潤していることを念頭に置く。
その場合、主人公2人の行動は、「愛情の確認作業」と受け取れるだろう。殺す、その喪失感を持って相手に対する愛情の深さを測る。殺させる、それほどの強い感情を相手に抱かせたことを確認する。
さあさあ!では真実の愛とは死に至ってはじめて確認できるものなのか?
主人公2人の壊れた歯車をなんとか立て直そうと、2人をささえ続ける恋人たちがいる。彼らは愛し合う2人がいかに永遠の生命を楽しみ、傷つけあうことなく過ごせるかを充分に理解しているようだ。彼らにはわからない、何故、主人公たち2人が愛し合っているのに傷つけあってしまうのかを。だから彼らはいつも2人を止めることができない。
ここでは、「変化を求め愛情に激しさを求める男女」と「永遠の変化無い日常にアクセントを持たせながらも安住する男女」の2組の男女が並列して描かれている。よりドラマティックなのは前者の2人なので彼らがこのストーリーでは主人公だ。
この2者が並列して描かれているのが、対照的で効果的だと思う。
はい、畢竟、世の恋愛とは大まかに分類するとこの2者になるのでしょう。
『あのこどもが遊んでいるきらきらしたもの、あれを止めることができれば…』
主人公2人の永遠回帰する宿業は、ストーリーの中で頻回に上記のような表現で登場し、終盤では『きらきらしたもの』『失敗作だけど美しいから壊せないもの』として明確な地位を与えられる。そして、彼らがやはりこの輪廻を抜け出せずに互いを愛し・殺し続けることが暗示されるのだ。
『失敗作』として表現されているのはつまり、「すれ違い」なのであろう。どんなに愛し合っていても、個体同士はけして完全なる同一化を果たせないものなのであるが、愛し合っているからこそ、それを相手に求めがちである。そこら辺のヒトのふがいなさをあからさまに歌い上げているのがミスチルの「掌」ですよね。
『だけど美しいからこわせない』のは、そのほうがドラマティックだから、だから特殊なのだと、そういう存在意義を宿しているからでしょうね。
今のところ、壊したい世界なんて、わたしにはないけれど。
そういうドラマ性は、他者の物語の中で堪能することにします。
藤原薫との出会いもそのようなものであった。
全然関係ない話のようであるが、わたしがビバヒル(ビバリーヒルズ高校〜青春白書)を観ていた頃、最も印象深い話は「ブランドンとケリーが愛し合いながらもすべての行動が裏目に出て、相手は誤解し、また自分は邪推しまくり、結局はすれ違い続ける」というストーリーであった。…性格が悪いのかしら?
それは、単に面白いということで印象深いのではなくて、「すれ違い」という状態に至る、「仕方のなさ」に絶望したからである。その後、わたしは東浩樹氏の著書に触れて、それが「郵便的不安」とも言えるものだと知るのであるが。
ナゼすれ違うのか?誤解するのか?邪推するのか?
「すれ違う」という言葉には大前提として「理解しあうべき・本当は愛し合っている二人」が横たわっている。「誤解」「邪推」の背後には「伝わるべき善意」が存在している。
本当は愛し合っていたり、善意があるのであれば、何故それは歪み捩れてゆくのだろうか。愛が、善意が、そのまま伝われば良いではないか!
『あのこどもが遊んでいるきらきらしたもの、あれを止めることができれば…』
唐突に、この漫画の一文に戻る。
この漫画においても、主人公2人は重なり続ける宿命と互いへの強い愛情を持ちながらすれ違い続けるのである。
彼らは単にすれ違うのではない。彼らはある事情から永遠の生命を持っているのであるが、どんなに転生を重ねても彼らは出会い、また相手を殺すのである。殺した側は永遠の生命があるため、また相手が転生するのを待つことになる。そして、転生してきた相手がまた自分を殺す。今度は自分が転生し、相手を…。
それは湖のほとりで突然に受けた天啓のように永遠回帰する哀しみである。
さて、誰が言っていたかは定かではないが、死は生の終焉であると同時に、最も生を意識する瞬間でもある。死があるからこそ生が意識される。死は人生最大のドラマである。
古今東西、描かれてきた激しい愛憎の、はじまりや結末が死であることは多い。真の愛=生命をかける感情、ということの真偽についてはここでは保留し、そう描かれることが多いということ・そういうイメージが一般に浸潤していることを念頭に置く。
その場合、主人公2人の行動は、「愛情の確認作業」と受け取れるだろう。殺す、その喪失感を持って相手に対する愛情の深さを測る。殺させる、それほどの強い感情を相手に抱かせたことを確認する。
さあさあ!では真実の愛とは死に至ってはじめて確認できるものなのか?
主人公2人の壊れた歯車をなんとか立て直そうと、2人をささえ続ける恋人たちがいる。彼らは愛し合う2人がいかに永遠の生命を楽しみ、傷つけあうことなく過ごせるかを充分に理解しているようだ。彼らにはわからない、何故、主人公たち2人が愛し合っているのに傷つけあってしまうのかを。だから彼らはいつも2人を止めることができない。
ここでは、「変化を求め愛情に激しさを求める男女」と「永遠の変化無い日常にアクセントを持たせながらも安住する男女」の2組の男女が並列して描かれている。よりドラマティックなのは前者の2人なので彼らがこのストーリーでは主人公だ。
この2者が並列して描かれているのが、対照的で効果的だと思う。
はい、畢竟、世の恋愛とは大まかに分類するとこの2者になるのでしょう。
『あのこどもが遊んでいるきらきらしたもの、あれを止めることができれば…』
主人公2人の永遠回帰する宿業は、ストーリーの中で頻回に上記のような表現で登場し、終盤では『きらきらしたもの』『失敗作だけど美しいから壊せないもの』として明確な地位を与えられる。そして、彼らがやはりこの輪廻を抜け出せずに互いを愛し・殺し続けることが暗示されるのだ。
『失敗作』として表現されているのはつまり、「すれ違い」なのであろう。どんなに愛し合っていても、個体同士はけして完全なる同一化を果たせないものなのであるが、愛し合っているからこそ、それを相手に求めがちである。そこら辺のヒトのふがいなさをあからさまに歌い上げているのがミスチルの「掌」ですよね。
『だけど美しいからこわせない』のは、そのほうがドラマティックだから、だから特殊なのだと、そういう存在意義を宿しているからでしょうね。
今のところ、壊したい世界なんて、わたしにはないけれど。
そういうドラマ性は、他者の物語の中で堪能することにします。