2006年3月13日 地上の日常
 「ネコ好きっていうひとは大抵、『…ねこがね、わたしによってくるの』っていうよね」

 と、親友が言う。そこだ、それだ、とわたしは思う。ねこは好きだけど、ねこ好きの人に対してわたしが思わず身構えてしまうのは、その受身でいつつも高みから見下ろすような発言にあるのかもしれない。そんな気はないの、とねこ好きは言う。でも、無自覚だから余計にわたしは身構える。

 貪欲でなくたって、幸福は自然と近づいてくるものよ、追いかけるから幸福は逃げていくの、と、そんなふうにおしゃれに澄ましている。その澄ました横顔は、恋人だってお金だってそうなんだから、とでも言いたげである。…そこにわたしが感じて身構えてしまうのは、そんな鷹揚さを持たざるものの僻みなのかもしれない。

 ねこの仕草はいつも、邪険に扱うとその人が非難されるくらい愛らしい。その追い込むような愛らしさを回りに振りまいて、「貪欲ではないけれど、自然に寄ってくるものよ」という姿勢が、わたしを緊張させる。「好きだ、嫌いだ、ということにいろいろ理屈をつけるから難しくなるのよ」と、テラス席の椅子の上で「な〜ご」 

 しかし勉強会ですっかり帰るのが遅くなった明け方に、散歩中のダックスフント2匹が「ふんふん」ってわたしの足元にじゃれ付いて、飼い主のおじさんがいや〜すいませんねえなどと言いつつも「犬は犬好きの人がわかるんですよね〜」と破顔一笑、つまりは、わたしに自然とよってくるのはおしゃれで気まぐれなねこではなくて、不器用でも忠実でやっぱりかわいいわんこなのかもしれないと思うのだった。 

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