桜の森の満開の下 坂口 安吾
2005年6月9日 古代人の涙壺
2ヶ月ほど前、「書こう書こう」と思っていて、忙しさにかまけてついつい置き去りになっていたのが、この桜ネタだ。もはや季節は入梅で、桜とは程遠くなってしまったけれども。
さて、わたしのすむ地域には昔、地方の豪族の古墳であった遺跡に、桜の木がたっぷりと育っており、花見会場として名を馳せている古墳跡がある。
そのちいさな山の中腹にはなぜだか霊園があり、夜桜でも見に行こうものなら、数々の墓石がヘッドライトを反射して、そら寒いような、むしろ美しいような気にすらなってくる。
桜の花をライトアップするのは薄暗い雪洞で、正直、足元すらおぼつかない薄暗さである。その微妙な明るさは、むしろ夜の暗さを際立たせる意味しか無いかのようである。
なだらかな丘は桜のトンネルとなっており、手の届くところまで枝を張り出した桜から、むっとするようなでも確かに桜の香りが鼻腔を満たしてくる。
そうして、桜のトンネルが終わり、丘の頂上(おそらくそれは円墳の頂上だ)へくると、突然眼下におよそ270度、わたしのすむ街の夜景が一望されるのである。
そうしてわたしはいつも、この山に訪れるたび、「桜の森の満開の下」を思い出す。むせ返るようなほど覆いかぶさる桜、その向こうの闇、その桜の下の死体(それは豪族の死体でもあり、無数の霊園に眠る魂でもあろうと思うのだが)、このある程度理想的な舞台で、誰か、否わたし自身が狂ってしまうことはなかろうかと、狂気への期待と不安に少しばかり胸を躍らせて、桜のトンネルの下を潜り抜けるのだが、残念ながら・幸いながら、いまだにそのような現場には遭遇できないでいる。
今年は大変忙しく、その古墳跡の桜を見たのはほんの小1時間ほどで、しかも前日から40時間ほど連続で働いたあとで、強い疲労感に蝕まれていた。
そうして視たそれはおりしも散る間際、持てる限りの力で満開となっていた櫻花であった。低気圧が近づいているせいか、空気は重く、花弁をしっとりと濡らしていた。地面にはすでに、一足先に散った花弁が覆っており、踏みしめるたびにきゅう、きゅう、と鳴くようである。その場に蹲りたくなったが、止めておいた。わたしはまだ狂気に委ねるわけにはいかないからだ。
丘をくだり見上げると、その花を戴いた円墳は周囲の民家や量販店とはあまりに不釣合いだった。あれはやはり日常の場ではない。
いまは、ひっそりとしているけれども。
さて、わたしのすむ地域には昔、地方の豪族の古墳であった遺跡に、桜の木がたっぷりと育っており、花見会場として名を馳せている古墳跡がある。
そのちいさな山の中腹にはなぜだか霊園があり、夜桜でも見に行こうものなら、数々の墓石がヘッドライトを反射して、そら寒いような、むしろ美しいような気にすらなってくる。
桜の花をライトアップするのは薄暗い雪洞で、正直、足元すらおぼつかない薄暗さである。その微妙な明るさは、むしろ夜の暗さを際立たせる意味しか無いかのようである。
なだらかな丘は桜のトンネルとなっており、手の届くところまで枝を張り出した桜から、むっとするようなでも確かに桜の香りが鼻腔を満たしてくる。
そうして、桜のトンネルが終わり、丘の頂上(おそらくそれは円墳の頂上だ)へくると、突然眼下におよそ270度、わたしのすむ街の夜景が一望されるのである。
そうしてわたしはいつも、この山に訪れるたび、「桜の森の満開の下」を思い出す。むせ返るようなほど覆いかぶさる桜、その向こうの闇、その桜の下の死体(それは豪族の死体でもあり、無数の霊園に眠る魂でもあろうと思うのだが)、このある程度理想的な舞台で、誰か、否わたし自身が狂ってしまうことはなかろうかと、狂気への期待と不安に少しばかり胸を躍らせて、桜のトンネルの下を潜り抜けるのだが、残念ながら・幸いながら、いまだにそのような現場には遭遇できないでいる。
今年は大変忙しく、その古墳跡の桜を見たのはほんの小1時間ほどで、しかも前日から40時間ほど連続で働いたあとで、強い疲労感に蝕まれていた。
そうして視たそれはおりしも散る間際、持てる限りの力で満開となっていた櫻花であった。低気圧が近づいているせいか、空気は重く、花弁をしっとりと濡らしていた。地面にはすでに、一足先に散った花弁が覆っており、踏みしめるたびにきゅう、きゅう、と鳴くようである。その場に蹲りたくなったが、止めておいた。わたしはまだ狂気に委ねるわけにはいかないからだ。
丘をくだり見上げると、その花を戴いた円墳は周囲の民家や量販店とはあまりに不釣合いだった。あれはやはり日常の場ではない。
いまは、ひっそりとしているけれども。
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