たいていの大判コミックは、普段雑誌をチェックしないわたしにとっては、ジャケ買いせざるをえないものの一つである。
 藤原薫との出会いもそのようなものであった。

 全然関係ない話のようであるが、わたしがビバヒル(ビバリーヒルズ高校〜青春白書)を観ていた頃、最も印象深い話は「ブランドンとケリーが愛し合いながらもすべての行動が裏目に出て、相手は誤解し、また自分は邪推しまくり、結局はすれ違い続ける」というストーリーであった。…性格が悪いのかしら?

 それは、単に面白いということで印象深いのではなくて、「すれ違い」という状態に至る、「仕方のなさ」に絶望したからである。その後、わたしは東浩樹氏の著書に触れて、それが「郵便的不安」とも言えるものだと知るのであるが。

 ナゼすれ違うのか?誤解するのか?邪推するのか?

 「すれ違う」という言葉には大前提として「理解しあうべき・本当は愛し合っている二人」が横たわっている。「誤解」「邪推」の背後には「伝わるべき善意」が存在している。
 
 本当は愛し合っていたり、善意があるのであれば、何故それは歪み捩れてゆくのだろうか。愛が、善意が、そのまま伝われば良いではないか!

 『あのこどもが遊んでいるきらきらしたもの、あれを止めることができれば…』

 唐突に、この漫画の一文に戻る。
 この漫画においても、主人公2人は重なり続ける宿命と互いへの強い愛情を持ちながらすれ違い続けるのである。
 彼らは単にすれ違うのではない。彼らはある事情から永遠の生命を持っているのであるが、どんなに転生を重ねても彼らは出会い、また相手を殺すのである。殺した側は永遠の生命があるため、また相手が転生するのを待つことになる。そして、転生してきた相手がまた自分を殺す。今度は自分が転生し、相手を…。

 それは湖のほとりで突然に受けた天啓のように永遠回帰する哀しみである。

 さて、誰が言っていたかは定かではないが、死は生の終焉であると同時に、最も生を意識する瞬間でもある。死があるからこそ生が意識される。死は人生最大のドラマである。
 古今東西、描かれてきた激しい愛憎の、はじまりや結末が死であることは多い。真の愛=生命をかける感情、ということの真偽についてはここでは保留し、そう描かれることが多いということ・そういうイメージが一般に浸潤していることを念頭に置く。

 その場合、主人公2人の行動は、「愛情の確認作業」と受け取れるだろう。殺す、その喪失感を持って相手に対する愛情の深さを測る。殺させる、それほどの強い感情を相手に抱かせたことを確認する。

 さあさあ!では真実の愛とは死に至ってはじめて確認できるものなのか?

 主人公2人の壊れた歯車をなんとか立て直そうと、2人をささえ続ける恋人たちがいる。彼らは愛し合う2人がいかに永遠の生命を楽しみ、傷つけあうことなく過ごせるかを充分に理解しているようだ。彼らにはわからない、何故、主人公たち2人が愛し合っているのに傷つけあってしまうのかを。だから彼らはいつも2人を止めることができない。

 ここでは、「変化を求め愛情に激しさを求める男女」と「永遠の変化無い日常にアクセントを持たせながらも安住する男女」の2組の男女が並列して描かれている。よりドラマティックなのは前者の2人なので彼らがこのストーリーでは主人公だ。
 この2者が並列して描かれているのが、対照的で効果的だと思う。

 はい、畢竟、世の恋愛とは大まかに分類するとこの2者になるのでしょう。

『あのこどもが遊んでいるきらきらしたもの、あれを止めることができれば…』

 主人公2人の永遠回帰する宿業は、ストーリーの中で頻回に上記のような表現で登場し、終盤では『きらきらしたもの』『失敗作だけど美しいから壊せないもの』として明確な地位を与えられる。そして、彼らがやはりこの輪廻を抜け出せずに互いを愛し・殺し続けることが暗示されるのだ。

 『失敗作』として表現されているのはつまり、「すれ違い」なのであろう。どんなに愛し合っていても、個体同士はけして完全なる同一化を果たせないものなのであるが、愛し合っているからこそ、それを相手に求めがちである。そこら辺のヒトのふがいなさをあからさまに歌い上げているのがミスチルの「掌」ですよね。
 『だけど美しいからこわせない』のは、そのほうがドラマティックだから、だから特殊なのだと、そういう存在意義を宿しているからでしょうね。

 今のところ、壊したい世界なんて、わたしにはないけれど。
 そういうドラマ性は、他者の物語の中で堪能することにします。

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