ある意味でビジュアル系?

 「シャンソン」というものの私にとってのイメージは、「三輪明宏」に代表されていた。そしてそれはいつも、華やかさと退廃とに彩られていた。
 男性のシャンソン歌手が女性の心を歌い上げる、その中性的な感覚が退廃を呼ぶのだろうとも思う。
 
 正直なところ、シャンソンの正確な定義など知りもしないので、あくまでイメージ、つまりは私の思い込みによる発言になってしまうのは否めない。
 シャンソンにはドラマがある。ずばりストーリー仕立てであることも多い。また、人生の喜び・悲哀・愛・死という、演劇的要素を盛り込みまくった歌である。また、そのドラマティックな要素は歌い手にも必要とされている。いかに叙情的に歌い上げるのか?そこにはナルシシズムとも受け取れるほどの自己陶酔がなければならない…。

 徹底、その自己陶酔への徹底、ドラマへの徹底、男女のボーダーラインへの徹底、その「奇人」と評されかねない紙一重の徹底ぶり、そういうものが持つ力というのを、シャンソンというジャンルが、ガレージシャンソンショーが提示したと思った。
 
 すばらしきプチ・ブルジョワ
 どーにかなるさ、なんとでもなるさ
 幕切れはひとり、
 どーにもならない、なんともならない

 彼ら自身、「ななかいのバラジョー」の中で自らをこう語る。
 
 …「みょうちきりんなガレージシャンソンショーを名乗る二人組みが」…

 このぎりぎりのラインが潔いのである。猟奇的で退廃的な、江戸川乱歩的な時代を象徴するような、虚無への供物としての音、歌、…まあいずれにしても―

 シャンソンは復活を果たした、ガレージにおいて。
 

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