文鳥・夢十夜 夏目漱石
2004年9月27日 古代人の涙壺
少し年上の人が私に、「ちょっと明治辺りの古典を読んでみなよ」というので、お気に入りの中の一冊であるこの文庫本を手に取る。
漱石の文体は漢文調なせいかどこかしら濶舌がよく、彼が語る神秘や夢想というものは、その文体の彼方に、自己陶酔的な視点から少し遠ざかった位置に、配されることでむしろその事象の特定を上手に避けている感じがする。
何を言いたいかというと、「昔の女の幻想」や「夢十夜に描かれる夢」は、本当にその女がいたのか、とか本当にその夢を見たのか、という実在によらず、「女」「夢」という『観念そのもの』を語ることが可能になっている。それは、彼の文体が自分-筆者-文章として、「私が、」と語りながらも必ずしも私小説にとどまらない硬度を持っているからではないか、ということである。
いずれにせよ、私がうまく説明出来ないようであるのは間違いない。
さて、「文鳥」には常に「女」のイメージが投影されている。
三重吉が文鳥を勧める際、「千代」を文鳥の鳴き声に投影して物語りは始まる。千代は三重吉の恋人であったかは定かではないが。
しかし三重吉は文鳥を勧めておきながら、なかなか持ってこない。筆者は焦らされる。古今東西、ふぁむ・ふぁたーるは焦らすものだ。
その「焦らし作戦」は功を奏したのか、筆者は文鳥のくびの動きに、裾さばきに「昔の美しい女」の影を重ねて文鳥を愛する。この場合、昔筆者にそのような美しい女の存在が本当にあったのか、というのは大きな問題にはならない。文鳥が体現するところの昔の美しい女、とは、筆者にとっての「女」それもふぁむ・ふぁたーるの象徴であるからだ。
この短編の絶妙なところはこの後にある。
愛らしい小鳥を女に例えて賛美したり愛玩するのは小説上よくあるイメージ・プレイにすぎない。
この後、筆者は文鳥に「飽きる」。
一度「手に入れた」と認識したものに対して、人は醒め行くものなのかもしれない。美人は3日もすれば見飽きるともいう。
「付き合っているころはやさしかったのに、結婚したらないがしろにされるようになった」という発言は、おそらく結婚した女たちの大多数が一度は思うことであろう。
飽きてしまえば世話は次第におろそかになる。自らは手を出さず放置し、家人に世話を任せきることとなる。そのため、文鳥は猫に襲われる。
またまた秀逸なのが、ここで筆者が、一度は文鳥への興味を取り戻すことである。襲われた翌日は餌も水もたくさん与えるのだ。
猫に襲われる、といった出来事で「文鳥を失うかもしれない」「奪われるかもしれない」という事実に思い至り、執着心が湧いたようである。恋敵がいたほうが恋の炎は燃えるということか?
ある恋人たちは、互いに浮気疑惑が浮上しては喧嘩し、別れるの別れないのと騒いでは、いつの間にか仲直りする、ということを繰り返して5年以上も付き合っていた。たとえ不安定でも波風が立ったほうが恋の嵐は吹き荒れる、ということだろうか?
しかしやはり、飽きるのである。そしてやはり、文鳥を失うのである。厭らしい性癖ではあるが、人はただ愛らしいだけでは飽きてしまうものなのだ。
さらに厭らしいことに、筆者はその死を、家人に転化する。
自分が飽きたこと、飽きて世話を怠ったこと、だから文鳥は死んだのだと筆者は充分に理解している。だが、愛するもの・愛していたものの喪失で思わず高ぶった感情は、やはり他人に怒りの矛先を向けるのである。ああ、なんて卑怯なわたしたち!
わたしたちのいやらしさ、卑怯さ、そういうものをひっくるめて文鳥は息絶える。木の根元の土手に眠る。しかし文鳥をもたらした三重吉は誰のことも責めはしない。それは三重吉が出来た人だったからか?それともあくまで他人事だったからか?
…わたしはおそらく後者ではないかと思う。
頭の切れる漱石のすることですもの、最後の最後まで皮肉にわたしたちの卑怯さをさまざまな手段で明るみに出す、ってことじゃないかしら?
漱石の文体は漢文調なせいかどこかしら濶舌がよく、彼が語る神秘や夢想というものは、その文体の彼方に、自己陶酔的な視点から少し遠ざかった位置に、配されることでむしろその事象の特定を上手に避けている感じがする。
何を言いたいかというと、「昔の女の幻想」や「夢十夜に描かれる夢」は、本当にその女がいたのか、とか本当にその夢を見たのか、という実在によらず、「女」「夢」という『観念そのもの』を語ることが可能になっている。それは、彼の文体が自分-筆者-文章として、「私が、」と語りながらも必ずしも私小説にとどまらない硬度を持っているからではないか、ということである。
いずれにせよ、私がうまく説明出来ないようであるのは間違いない。
さて、「文鳥」には常に「女」のイメージが投影されている。
三重吉が文鳥を勧める際、「千代」を文鳥の鳴き声に投影して物語りは始まる。千代は三重吉の恋人であったかは定かではないが。
しかし三重吉は文鳥を勧めておきながら、なかなか持ってこない。筆者は焦らされる。古今東西、ふぁむ・ふぁたーるは焦らすものだ。
その「焦らし作戦」は功を奏したのか、筆者は文鳥のくびの動きに、裾さばきに「昔の美しい女」の影を重ねて文鳥を愛する。この場合、昔筆者にそのような美しい女の存在が本当にあったのか、というのは大きな問題にはならない。文鳥が体現するところの昔の美しい女、とは、筆者にとっての「女」それもふぁむ・ふぁたーるの象徴であるからだ。
この短編の絶妙なところはこの後にある。
愛らしい小鳥を女に例えて賛美したり愛玩するのは小説上よくあるイメージ・プレイにすぎない。
この後、筆者は文鳥に「飽きる」。
一度「手に入れた」と認識したものに対して、人は醒め行くものなのかもしれない。美人は3日もすれば見飽きるともいう。
「付き合っているころはやさしかったのに、結婚したらないがしろにされるようになった」という発言は、おそらく結婚した女たちの大多数が一度は思うことであろう。
飽きてしまえば世話は次第におろそかになる。自らは手を出さず放置し、家人に世話を任せきることとなる。そのため、文鳥は猫に襲われる。
またまた秀逸なのが、ここで筆者が、一度は文鳥への興味を取り戻すことである。襲われた翌日は餌も水もたくさん与えるのだ。
猫に襲われる、といった出来事で「文鳥を失うかもしれない」「奪われるかもしれない」という事実に思い至り、執着心が湧いたようである。恋敵がいたほうが恋の炎は燃えるということか?
ある恋人たちは、互いに浮気疑惑が浮上しては喧嘩し、別れるの別れないのと騒いでは、いつの間にか仲直りする、ということを繰り返して5年以上も付き合っていた。たとえ不安定でも波風が立ったほうが恋の嵐は吹き荒れる、ということだろうか?
しかしやはり、飽きるのである。そしてやはり、文鳥を失うのである。厭らしい性癖ではあるが、人はただ愛らしいだけでは飽きてしまうものなのだ。
さらに厭らしいことに、筆者はその死を、家人に転化する。
自分が飽きたこと、飽きて世話を怠ったこと、だから文鳥は死んだのだと筆者は充分に理解している。だが、愛するもの・愛していたものの喪失で思わず高ぶった感情は、やはり他人に怒りの矛先を向けるのである。ああ、なんて卑怯なわたしたち!
わたしたちのいやらしさ、卑怯さ、そういうものをひっくるめて文鳥は息絶える。木の根元の土手に眠る。しかし文鳥をもたらした三重吉は誰のことも責めはしない。それは三重吉が出来た人だったからか?それともあくまで他人事だったからか?
…わたしはおそらく後者ではないかと思う。
頭の切れる漱石のすることですもの、最後の最後まで皮肉にわたしたちの卑怯さをさまざまな手段で明るみに出す、ってことじゃないかしら?
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