昔、DISCORDというCDのブックレットに、坂本龍一・一問一答、のようなものが載っていて、そこに、

 「時計はどちらにつけますか?」
 「つけない。エネルギーを奪われるようだから(笑)」

みたいな回答があって、当時、四六時中に腕時計を愛用していた時計少女だった私は、泣く泣くその左腕からLUKIAをはずした。
 
 はじめのうちはその左腕の軽さに戸惑っていたが、坂本龍一の感性を自分でも体験したくて、はずし続けた。
 それでも時がたてば慣れるもので、数年後、仕事の都合上、どうしても腕時計の装着が必須になるころになってようやく、左腕の重さとエネルギーの奪われる感じを体感することができた次第である。

 思春期後半、私は坂本龍一に感化されていたのであった。
 その結実ともいえるのが、「LIFE」であった。

 実は、TOKYOのは、観にいってました。
 かなり割安の「学生席」が買えたので。

 学生席は、座るとステージ上は全く見えなくなる、かなり虐げられた、というか、その値段なら当然か、という座席だった。
 頭上には2階席がせり出しており、私の身長でぎりぎり頭がぶつからない程度だったので、少し上背のある友人は、常に中腰の姿勢でないといけないのだった。

 それでも、私たちは興奮していた。
 
 …

 どうもあれ以来、彼はエコロジーとか平和とか、そういう社会性が強く表れるようになった気がするのだけど、「年をとった、ってことじゃない?」などと私の友人は言っていた。そうかもしれない。そうじゃないかもしれないけど。

 いずれにせよ、坂本の坂本たるゆえんは、その活動の意義とか使命とかそういう要因ではなく、LIFEにも、アジエンスにも、子猫物語にも一貫して流れる「坂本らしさ」に起因しているのだろうと思う。そんなところにこだわっていると批評にならない、のかもしれないが、それでもいいです、もう、だってわたしはかつて彼に心酔していたのだから、批評はともかく、批判なんてできそうにない。 


コメント