六段・春の海〜筝曲の神髄
2004年9月4日 invention and sinphonia
東儀秀樹以来の、日本の「邦楽」回帰ブームは、今どうなっているのだろうか。
さても、毎年、新春ともなると、この春の海をテレビやらラジオやらで聞かない日はないのではないかと思うほどであるが、気がつくとこの箏曲はメディアから消えている。…いつの間に?やはり目安は七草の日なのだろうか。記憶にない。
さて、私が学生時代にすごしていたちょっとこぎれいなアパートは、住宅地の只中にあって、平日昼間からのんびりしていると、実にほのぼのできていた。
当時、まだ教養学部生だった私は、前年に単位を取り巻くってしまっており、バイトと部活動とだらだら過ごす毎日だった。特に、火曜日は夕方から部活があったものの、基本的に昼間は何もないことが多く、陽がだいぶ高くなってから目覚め、コーヒーをドリップし、たまにはホットケーキを焼いてみたりして、そしておもむろに本を読みふけっていたものだった。
そして、必ず火曜日の10:30、それは唐突にはじまる。
♪みあげてごらん、よるのほしを…
歌ではなく、大正琴の音色であった。しかも一人ではない。おそらく3-5人は同時に合奏しているであろう。
その大正琴サークルはその後12:00まで途中に(多分)休憩を挟みながら練習をするのである。ときにおばさま達の遠慮のない笑い声がどっと響きもする。レパートリーは懐メロが多い。そして以外に数は少ない。毎週繰り返し繰り返し、同じ曲を合奏し続ける。
その大正琴の音色は、宮城道雄の幽玄な音色とは異なり、ある意味チープな、たとえて言うならLPに対してソノシート的な違いを持っている。そして技術的には、ピアノに対してのピアニカ(鍵盤ハーモニカ)のような違いがある。
まあきっとそういう気軽さが、長く主婦社会で市民権を勝ち得ている理由なのだろうが、私にとってはあのダルでぼんやりとしたあのブランチタイムとそのときのカーテンから差し込む陽光、そういうイメージを喚起する要素であるから、好きなわけではないけれど、やはり嫌いではない。むしろ少しセンチメンタルな気持ちになる。
話は変わるが、昔、日本びいきのアメリカのロックバンド「ボンジョヴィ」が、日本をイメージしてつくったとかいう曲の(タイトル忘れた)スコアを見たことがあった。
『KOTO』のパートがあり、当然、琴のパートは誰がやるんだ、という話になった。幸いといおうか、私の友人で京都出身の女子は「お琴・生田流の経験者」だったため、彼女に声をかけたのだが、にべもなく断られた。
琴をたしなむ京女は、ボンジョヴィみたいに暑苦しいロック魂とは相容れないのかもしれない。
さても、毎年、新春ともなると、この春の海をテレビやらラジオやらで聞かない日はないのではないかと思うほどであるが、気がつくとこの箏曲はメディアから消えている。…いつの間に?やはり目安は七草の日なのだろうか。記憶にない。
さて、私が学生時代にすごしていたちょっとこぎれいなアパートは、住宅地の只中にあって、平日昼間からのんびりしていると、実にほのぼのできていた。
当時、まだ教養学部生だった私は、前年に単位を取り巻くってしまっており、バイトと部活動とだらだら過ごす毎日だった。特に、火曜日は夕方から部活があったものの、基本的に昼間は何もないことが多く、陽がだいぶ高くなってから目覚め、コーヒーをドリップし、たまにはホットケーキを焼いてみたりして、そしておもむろに本を読みふけっていたものだった。
そして、必ず火曜日の10:30、それは唐突にはじまる。
♪みあげてごらん、よるのほしを…
歌ではなく、大正琴の音色であった。しかも一人ではない。おそらく3-5人は同時に合奏しているであろう。
その大正琴サークルはその後12:00まで途中に(多分)休憩を挟みながら練習をするのである。ときにおばさま達の遠慮のない笑い声がどっと響きもする。レパートリーは懐メロが多い。そして以外に数は少ない。毎週繰り返し繰り返し、同じ曲を合奏し続ける。
その大正琴の音色は、宮城道雄の幽玄な音色とは異なり、ある意味チープな、たとえて言うならLPに対してソノシート的な違いを持っている。そして技術的には、ピアノに対してのピアニカ(鍵盤ハーモニカ)のような違いがある。
まあきっとそういう気軽さが、長く主婦社会で市民権を勝ち得ている理由なのだろうが、私にとってはあのダルでぼんやりとしたあのブランチタイムとそのときのカーテンから差し込む陽光、そういうイメージを喚起する要素であるから、好きなわけではないけれど、やはり嫌いではない。むしろ少しセンチメンタルな気持ちになる。
話は変わるが、昔、日本びいきのアメリカのロックバンド「ボンジョヴィ」が、日本をイメージしてつくったとかいう曲の(タイトル忘れた)スコアを見たことがあった。
『KOTO』のパートがあり、当然、琴のパートは誰がやるんだ、という話になった。幸いといおうか、私の友人で京都出身の女子は「お琴・生田流の経験者」だったため、彼女に声をかけたのだが、にべもなく断られた。
琴をたしなむ京女は、ボンジョヴィみたいに暑苦しいロック魂とは相容れないのかもしれない。
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