クサマトリックス/草間弥生
2004年7月28日 地上の日常
さて、私が現在住まう街は、どうやら草間弥生の故郷であるらしく、1-2年ほど前に市立美術館を建設していたところ、彼女の巨大なオブジェが工事現場を覆うグレイの覆い布の向こうに見え隠れしていて、一般市民含め、無知な大学生たちは「なんだかキモイ」と言ってはばからなかった。
そのオブジェは今でもやはり美術館の正面入り口に鎮座ましましていて、それは巨大で、茎の捻じ曲がった、水玉のチューリップである。
さらに、草間弥生の常設展示もある。
私は美術に詳しいというわけでもないが、昨年中はなぜだか頻繁にその美術館に通った。
それは併設されているカフェのケーキと、焼き菓子と、オムライスが美味しいだとか、すぐ近くのアンティーク喫茶のコーヒーと雰囲気が素敵だとか、そういう副次的な目的もさることながら、意外と良い企画展が多いのも理由のひとつであった。それと、そのころはモラトリアムに過ごしていたという事実と。
森美術館のクサマトリックスにも行った。たまたまそれは夜で、薄ぼんやりと明るい遠景に東京タワーが照らされているのを、展望台から見下ろしながらカフェラテをを飲んだ。…まあそれはいい。
草間弥生にとっての水玉はもはや、持ちネタというか、定番という感じである。「もともとは眼を閉じてもまぶたの裏に繰り返し浮かぶ残像を偏執的に表現したのが水玉や亀甲パターンだった」と、私の大学の精神科講師は語っていた気がする。
さて、先日もふらりと市立美術館に行った。
森美術館のクサマトリックスとは大違いの空きっぷりである。
老夫婦が私の前をゆっくり鑑賞していた。
老夫婦は「なんだか良く分からないけど、めが回るね」
などといいながら歩みを進める。
合わせ鏡の中のニョロニョロもどきと私たち。
水玉+ブラックライトのリビング。
乾燥パスタのカーペット。
老夫婦は「これが芸術ってものかいね」と会話している。
私にとってはもはや5-6回目の鑑賞なので、驚きよりは「慣れ」と「笑い」である。
ブラックライトのリビングルームのいすに腰掛けて、老夫婦を見送りながら、異常事態になじんでゆく私の正常を客観視した、ある日の午後。
そのオブジェは今でもやはり美術館の正面入り口に鎮座ましましていて、それは巨大で、茎の捻じ曲がった、水玉のチューリップである。
さらに、草間弥生の常設展示もある。
私は美術に詳しいというわけでもないが、昨年中はなぜだか頻繁にその美術館に通った。
それは併設されているカフェのケーキと、焼き菓子と、オムライスが美味しいだとか、すぐ近くのアンティーク喫茶のコーヒーと雰囲気が素敵だとか、そういう副次的な目的もさることながら、意外と良い企画展が多いのも理由のひとつであった。それと、そのころはモラトリアムに過ごしていたという事実と。
森美術館のクサマトリックスにも行った。たまたまそれは夜で、薄ぼんやりと明るい遠景に東京タワーが照らされているのを、展望台から見下ろしながらカフェラテをを飲んだ。…まあそれはいい。
草間弥生にとっての水玉はもはや、持ちネタというか、定番という感じである。「もともとは眼を閉じてもまぶたの裏に繰り返し浮かぶ残像を偏執的に表現したのが水玉や亀甲パターンだった」と、私の大学の精神科講師は語っていた気がする。
さて、先日もふらりと市立美術館に行った。
森美術館のクサマトリックスとは大違いの空きっぷりである。
老夫婦が私の前をゆっくり鑑賞していた。
老夫婦は「なんだか良く分からないけど、めが回るね」
などといいながら歩みを進める。
合わせ鏡の中のニョロニョロもどきと私たち。
水玉+ブラックライトのリビング。
乾燥パスタのカーペット。
老夫婦は「これが芸術ってものかいね」と会話している。
私にとってはもはや5-6回目の鑑賞なので、驚きよりは「慣れ」と「笑い」である。
ブラックライトのリビングルームのいすに腰掛けて、老夫婦を見送りながら、異常事態になじんでゆく私の正常を客観視した、ある日の午後。
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