あらかじめ断っておきたい。
 私は音楽というものを語るだけのバックグラウンドが十分にある人間ではない。体系だって学んだ何かがそうそうある訳でもない。一般に「クラシック」というものには「習い事」として触れていたのであり、コネも金もたいした才能もない私はこれ以上続けてもせいぜいピアノの先生どまり、と、当時習っていた先生にいわれ、早々と断念したという経緯があるだけである。それは自覚の上での、読書の記録、と認識していただきたい。
 ショスタコーヴィチへの思い入れにしても、幾曲かの交響曲を聴いたということ、「森の歌」に合唱団として参加した、そのくらいである。
 しかも、久しぶりに丁寧に読もうと取り組んでいるので、おそらく分割して記録せざるを得ない。忘れた頃に次の章の記録をするかもしれない。
 
 1:真実の音楽を求めて
 2:わが人生と芸術の学校

 この証言は完全に時間軸にそっているでもなく、テーマが分別されているでもなく、ショスタコーヴィチの思い出自分語りの態である。そんなわけで、読者も年老いたショスタコーヴィチがつれづれなるままに語る話を傍らで聞いているような、そのような構成である。

 ショスタコーヴィチは決して裕福ではないが、それなりに芸術を愛するポーランド系の家庭に生まれる。彼は17の頃に、当時高名な芸術評論家の主催する映画館でピアノ弾きのバイトをしていた。金を稼ぐためである。しかし、その評論家は金を払おうとしないばかりか、
 
 「…かれは私にきわめて美しい、崇高な演説を行った。…給料を請求したりすることで、粗野で強欲で利己的な私の水準まで芸術を引き下げ、芸術を冒涜することになる。要するに、給料なんか請求するべきではない、という趣旨であった。…」
 「わたしはただひたすら芸術を憎んだ。芸術は嘔吐を催させた。」

 本当に、ショスタコーヴィチは、芸術を憎んでいるのか?
 …私はそうは思えない。彼の創作を聴く限り、彼は音楽に対する愛情を持っていると思われる。では、何を憎んだのだろうか。
 この疑問を胸に止めて読み進めてみよう…。

 彼はこうも語る。
 
 「ところで、わたしは自分に向けられる粗雑な態度に耐えられない。いわゆる『芸術家』がそのような態度をとるのにも。
 粗雑さと残虐さは、私がなによりも憎んでいる性質である。このふたつはたいてい結びついているが、その例の一つはスターリンである。
 レーニンは『スターリンの唯一の欠点は粗雑さである』と述べていた。スターリンが党書記長の地位にいたのは、粗雑さがとるに足りない欠点だからということで、それどころか粗雑さはむしろ勇気とほとんど同じものであった。しかし、その行き着いた果てがどのようなものだったかは、私たちは誰でも知っている。
 …しかも粗雑な人間は、政治であれ芸術であれ、どんな分野でもとにかく活躍する。…いたるところで独裁者、専制君主になろうと努め、あらゆる人間を圧迫しようと努めている。その結果は、普通はきわめて悲しいものとなるのである。
 …わたしがとりわけ憤慨させられるのは、これらの冷血漢の周囲に、つねに心底からの崇拝者と追随者がいるという事実である。」

 音楽学校時代の女子同級生ユージナについてはこう語っている。
「ユージナはどんな曲を弾いても『他の人とは違う』ものになる。大勢の男女の崇拝者たちはそれに気も狂わんばかりに惚れ込んでいた。わたし個人としてはm、彼女の演奏に納得できない点がたくさんあった。これはどういうことかと彼女に尋ねると、たいてい、『わたしはそう感じたの』というような答えが返ってくるのだった。いったい、ここにどんな哲学があるといえようか。
 …ユージナはいつでも超満員になるほどの聴衆を集めていた。彼女については聖女であると語る人が後を絶たない。
 私はけっして反宗教活動家ではなかった。信じたければ信じなさい、という立場である。しかしユージナは、自分が聖女あるいは女性の予言者である、と本気で信じていたようである。
 ユージナはいつも、まるで説教でもするかのように演奏していた。…ユージナのあらゆる振る舞いには、なにかしらわざとらしい、ヒステリーじみたものが非常にたくさんあった。」

 なるほど、私はこれらを目にして、すっかりショスタコーヴィチが大好きになってしまった。彼が憎むもの、嫌ってしまうものは、「崇拝」とか「心酔」ではないだろうか?
 芸術こそ生活よりも優先されるべき至上のものである、否。
 権威ある人物の発言はいつも正確な判断基準となる、否。
 党書記長は偉大な人格者であり尊敬すべき存在である、否。
 芸術は神のみ業である、否。
 劇的で神秘的でカリスマ性が、芸術家に必要である、否。

 ショスタコーヴィチは常に、「私は…思う」「わたしからすれば…」という、あらゆる判断にあくまで「自分個人の意見」という前置きを欠かさない。自分の発言が発言以上の意味(すなわち信仰のような状態)を引き起こすのを怖れているかのようである。

 絶対無二の価値は存在しない。
 あらゆる感想はあくまで自分の好みであって、異なる思想を糾弾する優位性もなければ、異なる思想から糾弾されるいわれもない。

 スターリン体制下のロシアで、愛国的作曲家として持ち上げられていたショスタコーヴィチは、その根底に、明らかな自由への意思を漲らせていた。

 

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