1825年、オーストリアのウィーンで、1人の老人が自殺を図った。彼の名はアントニオ・サリエリ。かつて宮廷にその名をはせた音楽家である。そのサリエリが、天才モーツァルトとの出会いと、恐るべき陰謀を告白する。「モーツァルトは殺されたのでは…」。19世紀のヨーロッパに流れたこのミステリアスな噂をもとに…

 私がまだ音楽(クラシック)でご飯を食べていけたらいいな、と思ってピアノを弾いていた少女だった頃、モーツアルトはあまり好みではなかった。
 私はどうもその頃から「苦悩する天才」が好みだったらしく、その時代の音楽家たちの中ではベートーヴェンが好きだった。
 モーツアルトの音楽は、どんな曲調の楽曲でも不思議と軽やかさがあって、漠然と、しかし、まさに天上の音が降りてきた感じを受けていた。

 ノーテンキな天才は、愛されると同時にやはり憎まれるものである。
 天才を夢見て天才になれなかった、あるいは自分は天才にはなれないと気づく、内向的な秀才は、ノーテンキな天才を憎むよりほかに自分の平静を維持できないのであろう。…私はもちろん、内向的な秀才崩れ(あくまで「崩れ」だ。秀才と名乗れるほどの努力をしていないから)である。同じ道を究めようとした同士だからこそ、羨望と嫉妬、愛情と憎悪、敬遠と執着、あらゆるアンビバレントな感情を抱いてしまうのである。

 サリエリも天才だった。…モーツアルトが現れるまでは。彼は天才の素質があったからこそ若きモーツアルトの天才性に気づいたし、それを怖れもしたのだろう。サリエリが天才でなくなってしまったのは、モーツアルトを認めることで、「自分が天才ではない」という想念が取り憑いてしまったからだ。人は自分を盲目的に信じることができないとき、不安に陥り、人と比較し、ねたみ、内向するのだ。そうしたとき、人に宿る天才性は息を潜めてしまう。

 どんなにうだつが上がらなくても、貧しくても、病気でも、モーツアルトはいつも幸福そうだった。自分の能力を信じていたし、それを素直に誇りにしていた。自分に宿る能力が天才の条件だと思い込むことができていたし、その条件において、やはり彼は天才肌でもあった。

 正直なところ、「自分が天才だ」と盲目的に信じることができる人がうらやましい…たとえ根拠のない自信でも。盲目的に信じている人は、たいてい本番に強いタイプである。…もちろん私はいつも不安だし、本番にも弱い。

 あと、間違ってはいけないのは「天才肌」=「天才」ではないことだろう。どんなに自分に過剰なほどの自信があっても、やはり天才であるケースなどほんの一握り、どころかひとつまみほどなのである。…いや、それでも、やはり過剰に自信があるほうがいいかもしれない。たとえ周囲に不快感を与えても、自分はいつだって幸福でいられるから。

 なんだか、皮肉めいてきてしまった部分もあったが、とにかく、とにかく、言いたいのは。

 世のすべてのアマデウスに賞賛を。
 世のすべてのサリエリに友情を。そして、深い、愛情を。
 

 

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