このような26歳男性は、近年、そうそういないとは思う。いたら「キモイ」と言われること間違いなしでしょうねえ。

 目出度い目出度い、と主人公は言うが、読んでいて嘲笑と憐憫とちょっとした切なさの向こうに、わずかな、わずかな共感を抱いてしまうのを禁じ得ない。さあ、これのどこが「目出度い」のか?

 この「お目出度き人」」が刊行された1911年は明治の末年であり、日露戦争後の不景気の中、文壇の巨匠たちは軒並み暗い感じだった。石川啄木は病気だし、夏目漱石は不機嫌のあまり博士号を突き返す始末だった。そんな中で、この目出度さは、いや、明るさはかなり新鮮だったろう。

 要はストーカーの話である。26歳独身男性はインテリの香りを漂わせながらも唐突に「自分は女に餓えている」と熱く語りだす。どうやら少し前にあこがれの女性に振られたようだ。失恋の痛手が和らいできた頃、近所のぴちぴちの女学生「鶴」のことが俄然気になってしまうのだ。まともに話したことも無いというのに、主人公の妄想は膨らみに膨らみ、早い段階で彼女と結婚することが自分の、また彼女にとっても幸福なことだと「確信」するに至ってしまうのである。

 この26歳独身童貞男性は、自分の中で「恋」が確定した後、結婚の準備として両親を説得し、仲立ちする人を頼み、鶴にあうために張り込みをし、あまりに女への欲求が高まるとあえて勉強して性欲を昇華させようと試みたり、…っていうか、まず
、鶴の気持ちを確認したら?

 結局、鶴の親を通しての求婚はあっさりと、しかも何度か断られる。その度に彼はこうして自らを慰め、元気づけるのだ。
「自分は勇士である!」と言い聞かせて。
…もう、かわいさすら感じてくるではないか。
 彼は断られて、あきらめることが男らしさなのか、あきらめないことが男らしさなのか、決めかねている。そして「鶴の本当の心がみたい」と願う。
かれは結婚する相手が自分のことを愛してくれていなければ意味が無いことはわかっている。でも、同情でもいいから愛情を向けてほしいとも願ってしまう。
 で、うだうだとそこらへんの悩みを日記に書き連ね、ひとたび寝ようとするのだが、興奮して眠れず、再び起きて今度は泣きながら新体詩を書いてしまうのである。そのタイトル、「目出度し」。

 …我あまりに目出度し
 目出度き故に他人と自分を苦しめるほど
 目出度し

 彼は鶴の学校をのぞいたり、彼女の成績を気にしたりと、彼女を修飾するものを探索するが、一年も彼女に直接あうことは無かった。つねに彼の中で「鶴」は妻の、恋人の、家族の、恋そのもののイメージの結晶であり、イデアであった。「鶴という他者」を受け入れることは無かった。彼にとって鶴は「鶴という形をもって表現される自分自身のある側面」でしかなかった。

 「他者」という意識なくして、恋は成就しても継続できない。他者を自己の分身として扱うことで幸福を得られる期間は続かないものである。彼はその短いはずの幸福期間を、己の妄想力によって必死に延長していたのである。

 彼はその行為が無益なもので、おそらく自分が本当に望んでいる結果にはならないことも気づいていたようだし、周囲の人に迷惑をかけかねない、ひいては「鶴」自身も気持ち悪さにひいてしまいかねない、ということは十分想像できていたのだ。しかし、彼は妄想に妄想を重ねるよりほか無かったのである。
 涙がこぼれるような、「お目出度き人」だ。

 彼は久しぶりに鶴に会えて、あまりに嬉しくて、麻布の友達に「鶴に会ったよ!」と報告する。…切ない。このときこの友人は「そうかい、そりゃよかったね」と答える。このときの友人の表情が目に浮かぶようだ。おそらく私も同じ表情で、同じようにしか返答できないのだろう。哀れみと同時に、心からの同情と愛情が湧いてきてしまう。

 結局、鶴はさわやか系スポーツマン風工学士とあっさり結婚するのである。明らかにこの26歳文系独身男性とは正反対のイメージを持つ男性だ。さあ、こんなときわれらがお目出度き人はどうするか…?
 
 本当は自分と結婚したかったのだが、両親やらの強いすすめで気の進まない結婚をしたのであって、むしろ哀れみすら感じるし、彼女の運命が心配になってしまう、などと言い出す。
 そんな思い込みのまま1ヶ月、彼女にこの思い込みは正しいのかを聞きただしたくもなりつつ、彼はこの発言で締めくくる。

「…しかし鶴が『わたしは一度もあなたのことを思ったことはありません』と自ら言おうとも、自分はそれは口だけだ。少なくとも鶴の意識だけだと思うにちがいない。」

 見事!これでこそお目出度き人である。だからこそ長生きできたのかもしれない。苦悩しない人には深みがでないけれど、お目出度き人でないとつらい時代に生きていけないかもしれないね。
 …でも、鶴はやはり、この人と結婚しなくて大正解だったと…言わざるを得ないのが、やはりかなしいところよね、お目出度き人。

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