…本当は画像が欲しかったのだけれど。

あとがきで中上は言う、
「これは谷崎潤一郎への和讃であり、『重力の都』で物語という重力の愉楽を存分に味わった。…小説が批評であるはずがない、闘争であるはずがないと確信したのもこの連作であった。…」

「秋幸」3部作も読んでない私には、やはり、この『重力の都』の重力を感じることはできないのだろうか?

数年前、重力の都を読んでみたとき、正直なところ字面を追うのに必死で、確かに谷崎的ではあるけど、舞台にしろ設定にしろ共感的に読める部分がある訳でもなく、ただ噂に聞くほど官能的な感じはむしろ受けず、本当に恥ずかしい話だが、全く訳が分からず、この本は私の中で「目は通したものの『読んだ』とは言えない本のカテゴリに入り、そのまま放置していた。

あれから何年か経て、けっしてこの本の官能性や情動性に共感できるような経験を積んだ訳でもなく、ただなんというか、「純文学」というジャンルに対する妙に肩肘張ったような意識が消えて、素直にまた読みたいと思った。そして再び手に取る。

やはり、煙に巻かれていく感覚がある。
筆者の視点なのか、主人公の男の視点なのか、彼が見つめる女の視点なのか、はたまた遠くの貴人の視線なのか、つらつらと流れる文章の向こうには、いくつもの視線が現れては消え、入れ替わり、しかし維持されていて、主語と述語の整合性は乱され、状況をうまく把握できない夢の中のようだ。

視線の変換、語り部の介入による統一性の不在、それがストーリーを奇妙に絡ませ、同時に複雑に美しい模様を織りなす、ということなのか?

繰り返し出てくる、春琴抄にも似た「針と目」のイメージ、まさに「刺青」のイメージ、それらは皆、「身体と針」による火花のような、稲妻のような、強烈なイメージの発火であり、そのときすべての「汚れ」は痛みとともに「美しさ」に昇華されるのかもしれない。

言葉、をいろいろとこねくり回してみれば上のようなことしか言えない。私の中上の読み込みなんてこんなものだ。

では、では、私の言葉で何かを考えてみようか?
注目する点は、そう…やはり「重力」だろうか。

重力、について考えたとき、私にとってはイコール物語、でもなんでもなく、重力はただ「g=重力加速度=9.8m/s/s」である。
…んん?「加速度」?
中上がもし、物語=重力と表現したとき、そこに加速度のイメージを含ませていたとしたら、それは私にもやっと理解できそうな気がしてくる。

物語が批評でもなく闘争でもない、とすれば、物語には「結論などない」のであろう。なんらかの筆者のイデオロギーがあったとしても…それは結論だったり正解だったりするはずはなく、ただ
主張にすぎない。
だとしたら物語は何を表現しているのか?…加速度ではないだろうか?この場合の加速度は、どこでもない何かへ向かう力そのものを指す。堕落でも飛翔でも、官能でも苦痛でも、無垢でも穢れでも、あらゆる対立項においてそのどちらでもなくまたその両極どちらにも向かう、人の、時間の、場の、自然の流れ…それらの動きに伴う加速度は文章を生み、それらは折り重なって物語となる。

私にはまだ中上は難しいのかもしれない…この重力についての考察すら浅慮であろう。
しかし、しかし、この「重力の都」で私が感じたものは官能でも谷崎っぽさでもなく、物語を微分していくと「重力=加速度」であるということだった、少なくともこの時点では、
そのことは書き記しておこう。いつの日かまた読み返す日の糧とするために。

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