ずっと以前から、読もうとは思っていた。
さほど私と年の変わらない、しかもいきなり芥川賞を受賞したこの早熟な青年作家に対して、羨望とか好奇心なんていう俗っぽい興味が先に立ってしまい、出来るだけフラットな心持ちで読めるようになるまで放置しており、―で、今になってふらっと立ち寄った書店で購入した、という訳だ。
解説が、いい。
四方田犬彦氏の解説なのだが、「こりゃあうまい」と思わず膝を叩きたくなる。私が日記に書きたいレビューはこの解説のような文章だ。―まあ書けやしないのだろうけども。
放っておくともっと解説ばかりを賛美しそうになるので、意識的にこの辺で止めることとし、やはりここはフラットな気持ちで、小説自体の記録をしたい。
(しかし、この解説に必要以上の共感を抱いてしまった以上、この解説の視点という呪縛から完全に解放された状態での記録はおそらく困難だ…それでも私は記録する)
はじめに触れておくべきは、登場当時も話題になった、煩雑なルビの使用であろう。四方田氏は解説の中でこう語る。
「作者はルビを引用として用いることで、それが母体としてきた物語の力(おそらく泉鏡花的な)を借り受けようとしている…ルビを引用しエクリチュールにバロック的な装飾を施すことで、かつてルビが体現し奉仕していた、物語という失われた言語の中に参入しようと試みているのだ。…」
このような視点は、長野まゆみの著作における宮沢賢治的キーワードの引用にも感じられる。古今東西の書物にあふれた現代、「独自の言葉」「独自の文体」というものを生み出すのは非常に難しくなっていると思う。必然的に誰かに似る。しかしもはや似ることは「盗作」を意味しないのだろう。「似る」こと自体が表現技法であり、上手に「似せる」ことはむしろオリジナリティかもしれない。
ルビのみならず、著者は確信犯的にエーコ風に書き出し、バルザック的展開を経て、泉鏡花的に派手な結末(日蝕)を描き、三島由紀夫の再来と呼ばれた。―この「確信犯的に」というのが彼の早熟さの根本ではないかと思う。
特別な足跡を残したい、誰かの真似ではない自分らしい表現を、しかし書物を読めば読むほど、学べば学ぶほど、自分が「自分にしか無い」と思っていた思考はすでに何者かによって表現されていた、という浸食―「自分が書く意味」は無いのか?むしろ誰ももう書く必要は無いのではないか?もう言われてないことなどないのだから。―いや、物語はそれでも書かれなければならない。
著者がこのように考えたうえで確信犯で在ろうとしたかどうかは全くの私の憶測だが、似たような苦悩はあったのだろう、と思いたい。
文中に、彼のイデオロギーは傍点部分として表されることが多いように思う。例をあげよう。主人公が酒と女に溺れ堕落した教区司祭ユスタスについてこう語る。(傍点部分含む)
「…より甚だしい堕落から月並みな堕落へと衰弱してしまったかに見える。或る本質的な堕落から周辺的な堕落へと衰弱してしまったかに見える。…それが私には…はるか以前より、我々総ての者に於いて起こっていることの酔うに想えてならぬのである。恰もさかしまの堕罪であるかの如く。…」
また、錬金術師ピエェルに対して、次のような印象を抱く。(ヘルメス選集の一節として、傍点付き)
「…地上の人間は死すべき神であり、天界の神は不死なる人間である、と。」
その後、アンドロギュヌスが現れ、物語は一気に加速し終末へと向かう。アンドロギュヌスが魔女として処刑される際に日蝕が起こり、まさに秘蹟、霊肉一致の至高の瞬間が訪れるわけだが、この辺りの文章、非常にスピード感が在る。そして悉く「両義性」について語られている気がしてならない。
そも、アンドロギュヌスは男であり女であり、またどちらとも言えぬ。その点で両義性を孕んでいる。
「この奇妙な生き物には、固より霊など宿ってはいないのである。…それは独り肉体しか有さなかった。肉体しか有さぬが故に、唯肉の原理によってのみ生き続けるのである。故に、その死は生と無礼な程に親しかった。…」
アンドロギュヌスの受けた拷問の傷から、「聖女にのみふさわしい馥郁たる香気」が立ち上り、魔女を処罰していたはずの人々に「我々こそが罪深く、それを贖いうるのがアンドロギュヌスなのではないか」という価値転倒を引き起こす。
日蝕!錬金術的化合のために、最後に必要な触媒であったのだろう…アンドロギュヌス、火刑、日蝕、さらには巨人の幻影、宗教的秘蹟はここに揃う。その時主人公に訪れたのは―両義性の転換に次ぐ転換であった。
「私は見ながらにして見られ、…私は僧であり、なおかつ異端者であった。男であり女であった。私は両性具有者であり、両性具有者は私であった。…起こるべき運動は悉くこの瞬間に起こり、過去の運動は、この瞬間に於いて無限に繰り返された。…私の霊は肉とともに昇天し、肉は霊とともに地底に降りた。…内界は外界と陸続きになった。…世界が失われて私があり、私が失われて世界があり、二つながらに失われ、二つながらに存在した。唯一つ存在した!…」
そして日蝕は終わる。
…読まなきゃ良かった、とも思った。このイメージ―この総ては両義性を孕み、それは容易に転換しうる、という思考―は私自身、思春期に想起して以来、なんとかしていつかは文章として表現したいと思っていたイメージであった。他者に言語のみならず思考もろとも奪われていくような喪失感…しかし同時に同好の士を発見したような密かな喜び…その両義性をもって私はこの作品を読了した。
この際、私の屈折した感情は放置しておくことにして、もう少し日蝕を考えたい。
まったく関係ないのかも知れないが、ここで起こった日蝕は、映画「マグノリア」における、「蛙」を私に想起させた。
人は生きるにあたって、幾つもの思惑を持つ。自分自身のこと、他者のこと、思考している以上、己の思惑の中でのみ己が評価され、他者が想念される。当然、他者に於いてはそれがずれる。ズレは摩擦を生み、摩擦は諍いとなりうるし、状況を好転させもすれば悪化させもする。小学校道徳の教科書的に言ってしまえば…「みんな一生懸命生きて居るんだけど、うまくいかないこともあるんだよ。みんな悪くないけど、悪いことも起きてしまうんだよ」みたいな、みたいな。
そんなこんなで悪くなっていく事態、というか救いのなさにあふれた状況―そこに皆の予想を超えた、超越的な力が及ぶ。「日蝕」や「蛙」。これで事態は好転するのか?―否、そうではない。事態は「動く」だけだ。この恩寵は「救い」ではない。
では結果は?―はい、なるようにしかならない。でも、人は考えすぎて動けなくなるときがある。そういうときにこの「恩寵」はあまねく総てのひとの上に降り注いで状況を一気に進展させたかと思えば、呆然とさせ素に戻し、あとは勝手にしやがれとばかりに放置する。必殺技かつリセットボタン。
放置されたら、人はどうすれば良いんだろう?…勝手に逃げるか。取り敢えずまた思惑を重ね、自分の信ずるところを積み重ねていくしか、結果的にそれしか、ないのだろう。総ては両義性において転換しうるし、救いなんて無い、ということを踏まえた上で。…あああ、つまりは私はそれでもやはり、読んで、書くしか無いってことか。
さほど私と年の変わらない、しかもいきなり芥川賞を受賞したこの早熟な青年作家に対して、羨望とか好奇心なんていう俗っぽい興味が先に立ってしまい、出来るだけフラットな心持ちで読めるようになるまで放置しており、―で、今になってふらっと立ち寄った書店で購入した、という訳だ。
解説が、いい。
四方田犬彦氏の解説なのだが、「こりゃあうまい」と思わず膝を叩きたくなる。私が日記に書きたいレビューはこの解説のような文章だ。―まあ書けやしないのだろうけども。
放っておくともっと解説ばかりを賛美しそうになるので、意識的にこの辺で止めることとし、やはりここはフラットな気持ちで、小説自体の記録をしたい。
(しかし、この解説に必要以上の共感を抱いてしまった以上、この解説の視点という呪縛から完全に解放された状態での記録はおそらく困難だ…それでも私は記録する)
はじめに触れておくべきは、登場当時も話題になった、煩雑なルビの使用であろう。四方田氏は解説の中でこう語る。
「作者はルビを引用として用いることで、それが母体としてきた物語の力(おそらく泉鏡花的な)を借り受けようとしている…ルビを引用しエクリチュールにバロック的な装飾を施すことで、かつてルビが体現し奉仕していた、物語という失われた言語の中に参入しようと試みているのだ。…」
このような視点は、長野まゆみの著作における宮沢賢治的キーワードの引用にも感じられる。古今東西の書物にあふれた現代、「独自の言葉」「独自の文体」というものを生み出すのは非常に難しくなっていると思う。必然的に誰かに似る。しかしもはや似ることは「盗作」を意味しないのだろう。「似る」こと自体が表現技法であり、上手に「似せる」ことはむしろオリジナリティかもしれない。
ルビのみならず、著者は確信犯的にエーコ風に書き出し、バルザック的展開を経て、泉鏡花的に派手な結末(日蝕)を描き、三島由紀夫の再来と呼ばれた。―この「確信犯的に」というのが彼の早熟さの根本ではないかと思う。
特別な足跡を残したい、誰かの真似ではない自分らしい表現を、しかし書物を読めば読むほど、学べば学ぶほど、自分が「自分にしか無い」と思っていた思考はすでに何者かによって表現されていた、という浸食―「自分が書く意味」は無いのか?むしろ誰ももう書く必要は無いのではないか?もう言われてないことなどないのだから。―いや、物語はそれでも書かれなければならない。
著者がこのように考えたうえで確信犯で在ろうとしたかどうかは全くの私の憶測だが、似たような苦悩はあったのだろう、と思いたい。
文中に、彼のイデオロギーは傍点部分として表されることが多いように思う。例をあげよう。主人公が酒と女に溺れ堕落した教区司祭ユスタスについてこう語る。(傍点部分含む)
「…より甚だしい堕落から月並みな堕落へと衰弱してしまったかに見える。或る本質的な堕落から周辺的な堕落へと衰弱してしまったかに見える。…それが私には…はるか以前より、我々総ての者に於いて起こっていることの酔うに想えてならぬのである。恰もさかしまの堕罪であるかの如く。…」
また、錬金術師ピエェルに対して、次のような印象を抱く。(ヘルメス選集の一節として、傍点付き)
「…地上の人間は死すべき神であり、天界の神は不死なる人間である、と。」
その後、アンドロギュヌスが現れ、物語は一気に加速し終末へと向かう。アンドロギュヌスが魔女として処刑される際に日蝕が起こり、まさに秘蹟、霊肉一致の至高の瞬間が訪れるわけだが、この辺りの文章、非常にスピード感が在る。そして悉く「両義性」について語られている気がしてならない。
そも、アンドロギュヌスは男であり女であり、またどちらとも言えぬ。その点で両義性を孕んでいる。
「この奇妙な生き物には、固より霊など宿ってはいないのである。…それは独り肉体しか有さなかった。肉体しか有さぬが故に、唯肉の原理によってのみ生き続けるのである。故に、その死は生と無礼な程に親しかった。…」
アンドロギュヌスの受けた拷問の傷から、「聖女にのみふさわしい馥郁たる香気」が立ち上り、魔女を処罰していたはずの人々に「我々こそが罪深く、それを贖いうるのがアンドロギュヌスなのではないか」という価値転倒を引き起こす。
日蝕!錬金術的化合のために、最後に必要な触媒であったのだろう…アンドロギュヌス、火刑、日蝕、さらには巨人の幻影、宗教的秘蹟はここに揃う。その時主人公に訪れたのは―両義性の転換に次ぐ転換であった。
「私は見ながらにして見られ、…私は僧であり、なおかつ異端者であった。男であり女であった。私は両性具有者であり、両性具有者は私であった。…起こるべき運動は悉くこの瞬間に起こり、過去の運動は、この瞬間に於いて無限に繰り返された。…私の霊は肉とともに昇天し、肉は霊とともに地底に降りた。…内界は外界と陸続きになった。…世界が失われて私があり、私が失われて世界があり、二つながらに失われ、二つながらに存在した。唯一つ存在した!…」
そして日蝕は終わる。
…読まなきゃ良かった、とも思った。このイメージ―この総ては両義性を孕み、それは容易に転換しうる、という思考―は私自身、思春期に想起して以来、なんとかしていつかは文章として表現したいと思っていたイメージであった。他者に言語のみならず思考もろとも奪われていくような喪失感…しかし同時に同好の士を発見したような密かな喜び…その両義性をもって私はこの作品を読了した。
この際、私の屈折した感情は放置しておくことにして、もう少し日蝕を考えたい。
まったく関係ないのかも知れないが、ここで起こった日蝕は、映画「マグノリア」における、「蛙」を私に想起させた。
人は生きるにあたって、幾つもの思惑を持つ。自分自身のこと、他者のこと、思考している以上、己の思惑の中でのみ己が評価され、他者が想念される。当然、他者に於いてはそれがずれる。ズレは摩擦を生み、摩擦は諍いとなりうるし、状況を好転させもすれば悪化させもする。小学校道徳の教科書的に言ってしまえば…「みんな一生懸命生きて居るんだけど、うまくいかないこともあるんだよ。みんな悪くないけど、悪いことも起きてしまうんだよ」みたいな、みたいな。
そんなこんなで悪くなっていく事態、というか救いのなさにあふれた状況―そこに皆の予想を超えた、超越的な力が及ぶ。「日蝕」や「蛙」。これで事態は好転するのか?―否、そうではない。事態は「動く」だけだ。この恩寵は「救い」ではない。
では結果は?―はい、なるようにしかならない。でも、人は考えすぎて動けなくなるときがある。そういうときにこの「恩寵」はあまねく総てのひとの上に降り注いで状況を一気に進展させたかと思えば、呆然とさせ素に戻し、あとは勝手にしやがれとばかりに放置する。必殺技かつリセットボタン。
放置されたら、人はどうすれば良いんだろう?…勝手に逃げるか。取り敢えずまた思惑を重ね、自分の信ずるところを積み重ねていくしか、結果的にそれしか、ないのだろう。総ては両義性において転換しうるし、救いなんて無い、ということを踏まえた上で。…あああ、つまりは私はそれでもやはり、読んで、書くしか無いってことか。
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