イン ザ・ミソスープ 村上 龍
2004年4月12日 古代人の涙壺
村上龍の魅力って何だ?
この「イン ザ・ミソスープ」が新聞連載されていた頃、自然が豊かなことしか取り柄がないような故郷で、私は女子高生をしていた。
その女子高生の生活は、彼が著作で描いているような都心部の女の子たちとは違って―ふとした道ばたで、お店で、商店街(ちいさいけれど)で常に地方の共同体の視点に晒され、そのころから小心者の私は逸脱することも出来ず…唯一優等生らしからぬことと言えば、進学校だというのにほとんど勉強なんてせず、成績低迷もさほど気にせずに、親の叱責を聞き流しながら、本を読んだり友人といつまでもおしゃべりしていたり、というくらいだったと思う。
だから結局のところ、彼の描く少女たちや、都市部の生活というのは、私にとってはあくまで想像上の出来事でしかなく―実感なんて一つも湧きようのない、虚構の、虚構の設定だった。だが彼の小説を読むたび、そこに何かリアルを感じてしまうのは確かで、そのリアルさはどのようにして私に訪れるのだろう、と当時はぼんやり思っていたのだが、そろそろ妙齢になって、この本を読み返してみて、少しだけ、その糸口が見えてきたような気がしている。
簡単にストーリィを追ってみようか。
20歳になったばかりのケンジは新宿で外国人向けに性風俗の案内人をやっている。そして12月29日からの年末の3日間、フランクという「変わった」アメリカ人をアテンドする。そこに援助交際をしている女子高生やホームレス殺しが絡んでくる。
「変」という感覚はどこから生まれるのだろう。
「フランク」は変だ。とケンジは思う。
?顔(皮膚が人工的)
?表情(特に笑顔が全く可愛くなく、皮膚が崩れるようだ)
?脈絡無く嘘をつく
?血の付いた金を持っている(女子高生殺しの翌日だ)
?自宅ドアに人の皮膚が貼り付けられていた(フランクと出会った翌日に)
?汚れてぐちゃぐちゃの金を持っている(ホームレス殺しの翌日…)
?歌舞伎町の女性に催眠術を使う
…
ざっと挙げただけでも、フランクが「変」だと示唆する情報はこれだけ、繰り返し、書かれている。
ここでのフランクの持つ「変」はイコール「狂気的」というか、平たく言えば「やばい(危険な)感じ」であるが。
?〜?の項目に関して言えば「行為」に対する評価であり、そこには?も、やや含まれるだろう。そして、??また?を含むのが「質感」ではないだろうか。
もはやこの「質感」については、印象とか直感とか、そういう非常に流動的な感覚なのだろうけど、ここには常識と呼ばれる「正常値のライン」は正確には存在し得ないのだろうけど、不思議と人間の中では個人・人種・性差まで越えるような形で共有可能なものとなっている―人が「快」と感じるものには嗜好の個人差が在るが、「不快」と感じるものは概して共感覚であると思う…ゴミ、下水の匂い、汚れ、死、病気、…おそらく誰もが程度の差こそあれ不快に思う、その不快の質感がフランクという「不快な人間」を観察することで語られている。
同時にフランクが「不快」と思うことも語られる。フランクは狂気で「一般的に不快なモノ」に分類されてしまう人物ではあるが、そんな彼が不快と思うものはケンジにとっても了解可能な感覚なのだ…ケンジはフランクを不快に思うと同時に、フランクの不快さも共感できる。
不快な質感のみならず、不快な行為もまた、社会通念として刷り込まれてきた「常識」からの逸脱だ。常識、と言われながらも、それは個々人によって差異がある…本書に置いては、公序良俗の視点からすれば排除すべきとされる性風俗業界もケンジにとっては自分が生きている自然な環境であり、援助交際だって大人は眉をひそめるけれど、当人たち(女子高生)にとっては一定の秩序のある常識的行為となっている。
その狂気へ向かっていく流れを私自身が最も感じたのは「語り」として表現されているところであった。フランクは脈絡無く嘘のストーリィを創作し語ってしまう。おかしな言葉を真剣に連呼する。
新聞連載中、1日分の掲載が全てフランクの「語り」で埋め尽くされ、途中改行すらされていないことが何度かあった。読点はあれど句点すらない。小説が進むにつれて、その頻度は高くなっていったようにも思う。フランクが狂気の度合いを強めるにしたがって、彼の語りもまた加速度的に長く、切れ目無く、混迷して行き、会話から対象の他者が消えていった。
フランクの語りは論理的には構成されているように見える―しかし、かれが真剣に、長く、語れば語るほど、人は彼の話を聞き流せなくなるし、聞き流せない以上はそこに潜む彼の狂気を意識せざるをえない。
会話に置いて、あるいは表現というもの全般に言えることなのかもしれないが、対象の他者や一般常識というものが一定のルールとなりうる…表現する以上はそれらを意識しなければならない…気がする。その抑制をとってしまうことは他者に「変」という印象を与えてしまう。
フランクは人を殺す。だから社会にとっては有害だ。だからフランクだけが変なのか?―そうではない、「変さ」というのは煩悩のように誰にでもある、それが行為として状況として社会にどう表出するかによって有害さが決まるにすぎない。日本社会とは何か?フランクはそれを「ミソスープ的」と表現する。自らをも小さな具材の切れ端になぞらえて。
「ぼくのような人間は明らかに有害だ、ぼくはウイルスにとてもよく似ている……ぼくは自覚的に殺人を犯し、他の人間たちにショックを与え、考え込ませる、でもぼくはこの世界に必要とされていると思う、…あいつらは、生きようという意志を放棄しているわけではない、他の人間とのコミュニケーションを放棄しているんだ、…社会生活を拒否するのだったらどこか他の場所へ行くべきだ、何らかのリスクを負うべきだ、少なくともぼくはそうしてきた、彼らは罪さえ犯せない、退化している、」
「ケンジ、僕には分かるんだ、退化している人間は脳を巡る血流がものすごく弱い、殺してくれという信号を無意識に発しているんだ、だから僕は殺す、」
フランクの言っていることが正しいとか、間違っているとか、そう言うことじゃない。これがフランクの殺人の理屈なのだ。社会的には間違っていて歪んでいて有害でも、この理屈こそがフランクの中では理論的に構成された「正しさ」なのである。さあ、彼の殺人をどうやって否定して止めさせることが出来るだろう?
―除夜の鐘がフランクの煩悩を消すことに、期待しようか?
村上龍の魅力、あくまで私が感じる魅力なのだけど。
ちょっとね、示唆的すぎたりして説教くさい瞬間も在るけど、でも、文体の選び方が、文章の構成がすごく巧いよ。新宿の町並みの挿入とかも、イメージが沸きやすくかつストーリィを奪わない程度に出来ている。それに多分、常に意図的に問題意識を持とうとして社会を観察しているでしょう?そして丁寧に取材もしているでしょう?
小説はリアルじゃない、虚構だ、でもそのリアルさは?
文体、文章構成、モチーフ、キャラクタ、テーマ、取材、
そういうものを意識的にか、無意識的にか、緻密に計算されたかたちで小説の体を為す、
だから、私は、村上龍に魅力を感じてしまうのだろう。
この「イン ザ・ミソスープ」が新聞連載されていた頃、自然が豊かなことしか取り柄がないような故郷で、私は女子高生をしていた。
その女子高生の生活は、彼が著作で描いているような都心部の女の子たちとは違って―ふとした道ばたで、お店で、商店街(ちいさいけれど)で常に地方の共同体の視点に晒され、そのころから小心者の私は逸脱することも出来ず…唯一優等生らしからぬことと言えば、進学校だというのにほとんど勉強なんてせず、成績低迷もさほど気にせずに、親の叱責を聞き流しながら、本を読んだり友人といつまでもおしゃべりしていたり、というくらいだったと思う。
だから結局のところ、彼の描く少女たちや、都市部の生活というのは、私にとってはあくまで想像上の出来事でしかなく―実感なんて一つも湧きようのない、虚構の、虚構の設定だった。だが彼の小説を読むたび、そこに何かリアルを感じてしまうのは確かで、そのリアルさはどのようにして私に訪れるのだろう、と当時はぼんやり思っていたのだが、そろそろ妙齢になって、この本を読み返してみて、少しだけ、その糸口が見えてきたような気がしている。
簡単にストーリィを追ってみようか。
20歳になったばかりのケンジは新宿で外国人向けに性風俗の案内人をやっている。そして12月29日からの年末の3日間、フランクという「変わった」アメリカ人をアテンドする。そこに援助交際をしている女子高生やホームレス殺しが絡んでくる。
「変」という感覚はどこから生まれるのだろう。
「フランク」は変だ。とケンジは思う。
?顔(皮膚が人工的)
?表情(特に笑顔が全く可愛くなく、皮膚が崩れるようだ)
?脈絡無く嘘をつく
?血の付いた金を持っている(女子高生殺しの翌日だ)
?自宅ドアに人の皮膚が貼り付けられていた(フランクと出会った翌日に)
?汚れてぐちゃぐちゃの金を持っている(ホームレス殺しの翌日…)
?歌舞伎町の女性に催眠術を使う
…
ざっと挙げただけでも、フランクが「変」だと示唆する情報はこれだけ、繰り返し、書かれている。
ここでのフランクの持つ「変」はイコール「狂気的」というか、平たく言えば「やばい(危険な)感じ」であるが。
?〜?の項目に関して言えば「行為」に対する評価であり、そこには?も、やや含まれるだろう。そして、??また?を含むのが「質感」ではないだろうか。
もはやこの「質感」については、印象とか直感とか、そういう非常に流動的な感覚なのだろうけど、ここには常識と呼ばれる「正常値のライン」は正確には存在し得ないのだろうけど、不思議と人間の中では個人・人種・性差まで越えるような形で共有可能なものとなっている―人が「快」と感じるものには嗜好の個人差が在るが、「不快」と感じるものは概して共感覚であると思う…ゴミ、下水の匂い、汚れ、死、病気、…おそらく誰もが程度の差こそあれ不快に思う、その不快の質感がフランクという「不快な人間」を観察することで語られている。
同時にフランクが「不快」と思うことも語られる。フランクは狂気で「一般的に不快なモノ」に分類されてしまう人物ではあるが、そんな彼が不快と思うものはケンジにとっても了解可能な感覚なのだ…ケンジはフランクを不快に思うと同時に、フランクの不快さも共感できる。
不快な質感のみならず、不快な行為もまた、社会通念として刷り込まれてきた「常識」からの逸脱だ。常識、と言われながらも、それは個々人によって差異がある…本書に置いては、公序良俗の視点からすれば排除すべきとされる性風俗業界もケンジにとっては自分が生きている自然な環境であり、援助交際だって大人は眉をひそめるけれど、当人たち(女子高生)にとっては一定の秩序のある常識的行為となっている。
その狂気へ向かっていく流れを私自身が最も感じたのは「語り」として表現されているところであった。フランクは脈絡無く嘘のストーリィを創作し語ってしまう。おかしな言葉を真剣に連呼する。
新聞連載中、1日分の掲載が全てフランクの「語り」で埋め尽くされ、途中改行すらされていないことが何度かあった。読点はあれど句点すらない。小説が進むにつれて、その頻度は高くなっていったようにも思う。フランクが狂気の度合いを強めるにしたがって、彼の語りもまた加速度的に長く、切れ目無く、混迷して行き、会話から対象の他者が消えていった。
フランクの語りは論理的には構成されているように見える―しかし、かれが真剣に、長く、語れば語るほど、人は彼の話を聞き流せなくなるし、聞き流せない以上はそこに潜む彼の狂気を意識せざるをえない。
会話に置いて、あるいは表現というもの全般に言えることなのかもしれないが、対象の他者や一般常識というものが一定のルールとなりうる…表現する以上はそれらを意識しなければならない…気がする。その抑制をとってしまうことは他者に「変」という印象を与えてしまう。
フランクは人を殺す。だから社会にとっては有害だ。だからフランクだけが変なのか?―そうではない、「変さ」というのは煩悩のように誰にでもある、それが行為として状況として社会にどう表出するかによって有害さが決まるにすぎない。日本社会とは何か?フランクはそれを「ミソスープ的」と表現する。自らをも小さな具材の切れ端になぞらえて。
「ぼくのような人間は明らかに有害だ、ぼくはウイルスにとてもよく似ている……ぼくは自覚的に殺人を犯し、他の人間たちにショックを与え、考え込ませる、でもぼくはこの世界に必要とされていると思う、…あいつらは、生きようという意志を放棄しているわけではない、他の人間とのコミュニケーションを放棄しているんだ、…社会生活を拒否するのだったらどこか他の場所へ行くべきだ、何らかのリスクを負うべきだ、少なくともぼくはそうしてきた、彼らは罪さえ犯せない、退化している、」
「ケンジ、僕には分かるんだ、退化している人間は脳を巡る血流がものすごく弱い、殺してくれという信号を無意識に発しているんだ、だから僕は殺す、」
フランクの言っていることが正しいとか、間違っているとか、そう言うことじゃない。これがフランクの殺人の理屈なのだ。社会的には間違っていて歪んでいて有害でも、この理屈こそがフランクの中では理論的に構成された「正しさ」なのである。さあ、彼の殺人をどうやって否定して止めさせることが出来るだろう?
―除夜の鐘がフランクの煩悩を消すことに、期待しようか?
村上龍の魅力、あくまで私が感じる魅力なのだけど。
ちょっとね、示唆的すぎたりして説教くさい瞬間も在るけど、でも、文体の選び方が、文章の構成がすごく巧いよ。新宿の町並みの挿入とかも、イメージが沸きやすくかつストーリィを奪わない程度に出来ている。それに多分、常に意図的に問題意識を持とうとして社会を観察しているでしょう?そして丁寧に取材もしているでしょう?
小説はリアルじゃない、虚構だ、でもそのリアルさは?
文体、文章構成、モチーフ、キャラクタ、テーマ、取材、
そういうものを意識的にか、無意識的にか、緻密に計算されたかたちで小説の体を為す、
だから、私は、村上龍に魅力を感じてしまうのだろう。
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