ついに、今日で、しばらくお休みになる。
関係各所へさらっと挨拶。
同僚のお姉さま方とのお茶会もこれでしばらく打ち止めとばかりに、クッキーをいただいたからか、胸やけ?なんだか変な感じ。

ずっと仕事してきた。割とがんばってきた方だと思う。
やっている最中は毎日やめたかった。
でも、いよいよ満を持して「しばらく休んでいいよ~」となると

とたんに なんだか変な感じだ。

夏休み直前のこどものように、持ち帰る荷物が多い。
と、いちいち感傷的。

わたし、たぶんこの仕事が、やっぱり好きなんだと思う。

しばし、職場よ、「グッドバイ」。
 ノアの方舟を題材にした、蠅の王みたいな感じだろうか。
 もっとも、当時よっぽど子供向けに書かれたようで、蠅の王とは異なり、明らかな戦闘シーン(?)はない。
 
 原始、大地は満たされていて、生き物はみんな草食動物だった。ノアが船を造る。動物たちが乗り込む。狭い、閉塞的な空間で、限られた娯楽と食事。動物たちは、ノア一家は、なんとか譲り合ってちょっとした問題をクリアしながら洪水の日々をすごす。
 そしておだやかな日常の中に突如現れる黒い滲み、積み重なる澱、拡がる不安、そういったものは一見綺麗な顔をして侵入し、浸食していく。肉食動物たちは「肉食」を思い出していくことになる。
 
 作者、ウォーカーは第1次大戦に軍医として従軍したらしい。その影響だろうか、「人間はもちろん、いきものだって仲良く共存共栄なんてそうそうできないんだよー」とあきらめ半分に訴えているようだ。
 
 なかよし、って努力の持続と日常の満足がないと実現しないのだろう。
 こんなふうに、いつも自分の権利ばかり主張しているようじゃ、まだまだ人間に争いは絶えまい。
07月17日付 日刊スポーツ

当時、私は7Fにいたので、とてもぐらぐら揺れていた。ちょっとかがみ込んで作業している時だったので、「ああ、ついにわたしもめまいに」なんて思った。続いて、きっとだれかが強い力でテーブルを揺らしているに違いない、と思い、「ちょっとー」と声も出かかったが、まわりの人たちがきゃあきゃあ騒ぎだしたのを見て、「…地震か」と納得。
幸い震度4の地域だったため、大きな損害はなくすごせたけれど。

でも、震度5−6の地元が心配です。
The 脱力系。

Amazonから「あなたへのオススメ」として紹介されていて、しかもちょっと割引中だったので買ってしまった。・・・魔が差したように。
(でも、なぜ、これがオススメに?みうらじゅんとか買ってたからか?)

「猫、ひろしの、ギャグ、百連発ー、にゃー!」
という割に、100も無い。
 幼稚園に飛び入りし、こどもたちは本気で怖がって泣くし、小学生の女の子は本気で逃げるし、巣鴨のおやじには「おまえはつまらない」って説教されるし。
 でも時々、思ったよりおもしろいこともあって「猫ひろしの、そのとき歴史が動いた!」はちょっと見直した。
 とにかく、軽く笑っていやされたいあなたに、ぜひ。
 たたみかけられると面白くなってしまう、例えて言うならTIMのレッドのネタみたいな感じかなあ。

 猫アレルギーではないあなたに、ぜひ。
 別に、普段はインスタントでも構わない、けれども、コーヒーメーカーで作った珈琲を職場でいただいていると、時々、無性に時間のあったあの頃、ミルで引いて、ドリップして、そういう贅沢な時間に戻りたくなる。
 知人から、コーヒー豆を分けていただいたので、ずっと「明日の朝飲もう!」と思いながら1ヶ月が経過していた。
 正直、朝にお湯を湧かすことからひと手間かかるし。
 あと、旅行に行ったときに大量の中国茶を買ってきてしまったので、どんどん飲まなきゃ、でもある。
 そうだ、電気ケトルを買ってもいいんじゃないだろうか。働いてるし、自分のために。
 そこからいろいろ検索して、評判のよさそうな、でもややお値段高めなこのケトルを買ってみた。
 
 こんなにお湯が湧くのが早いとは!シンプルだし、出しっ放しでも違和感無し。適度に保温されるし、1回で1リットルちょっとは湧かせるし。
 手入れも楽で、プラスチックやガラス製のものよりジャカジャカ洗えるのもよかった。
 とりあえず、今朝、珈琲をドリップしてみたけど、どうかな、明日もできるかな、それとも1日坊主になってしまうんだろうか。でもきっと一歩は前進したと思う、オサレな生活ってやつに。
3月の終わり頃、この忙しい季節に、陽気な天才アメリカ人のおじさまがわたしの職場を訪ねて来られた。
遡ると、6月にもスェーデン人のおじさまが来て、英語の講演を行い、さらにそのあと飲み会まであって、相当狼狽えたことを思い出した。

不思議なもので、しばらく英語で無理矢理にでも会話をしていると、少しずつ理解し、意思を伝えられるようにはなるものである。あくまで一過性だけども。
そんなわけで、まあ今更わたしが言わずもがなではあるが、外国語、というか言語は日々の慣れが大事であると。で、ラジオもテレビも、そもそも放送時間が固定されているし、とてもじゃないが今のわたしの生活では不規則で対応していられない。

それでは
と、えいやとばかりに購入してみた。

実はまだ1日しかやってないのだけど、なかなか面白い。
今年の夏もまた別のアメリカ人のおじさま来るらしいので、その頃迄にはもう少しえいごに対する苦手意識がなくなっているといいなと思った。
お洒落になったスティーヴィー・ワンダーかと、思った。

そうするとスティーヴィー・ワンダーがお洒落じゃないのか?という話になってしまうけど、彼の場合はもうちょっと骨太な感じかなあ。
 いま、どこもかしこも紅葉に至ろうとしている。
 今日もひと山超えて、秘湯系温泉を3つくらい超えて、外勤に言ってきたけれども、前を行くトラックの煙やら、後ろからあおってくるアルファロメオにおびえながらも、料金所を超えてふと、前方に広く視野をとると、なんてこと!
 まんが日本昔話のようなおやまが三つ、それぞれに少しずつ色づいて、雑多な感じがよかった。雑多な感じは時にとても心地よい。冬の雷鳥もかわいいけれど、夏も素敵なように。

 朝も早いし夜も遅い生活だけれど、すっかり寒くなった。
 もう洗った髪をそのままにしてはおけない。
 どのくらい読み込んだかといえば、この1巻の一番はじめの内容が「犬ください」から始まったことも覚えている。

 記憶が確かならば、BS漫画夜話で扱われていたと思うのだが、その際に大槻ケンジが「うちには枕が一つしかありません、なので人を雇うことにしました。人は一晩中枕を移動させて働きます。夜中に目が覚めると人が弁当を食べているのをみることがあります」という内容に対して、「これはプロレタリアですよ!」と興奮していたことを思い出す。

 ほかにも出演者が、「かわうそくんを喜ばせようとして若者の真似をする老人」のお話で「かわうそさん、わしらコーラーも飲めるけん」という台詞の「コーラー」が年寄りらしさを細かく現していてすばらしい、と絶賛していた。

 そういえば、かわうそくんの初登場シーンは「ねたみ」と書かれた看板をもって、土手を行く中学生のあとをつけてくる、ではなかっただろうか。

 ともかく、吉田戦車には不思議なオノマトペが多い。くまの吠声は「びわー」だし、何かをつかむときは「みしっ」だ。

 全然関係ないけど、中学生か高校生の頃の国語の問題集のブレイクコーナーみたいなところに、伝染るんです。の漫画が取り上げられていて、「キャンプの醍醐味はやはり丸焼きである。川でつかまえた生きのいい『丸』を焼くのだ。」について、コレとおなじようなネタをつくれ、というお題が出ていたのである。無茶な話しだ。わたしも考えてみたけれど、ガチガチの受験生の頭では思いつかなかった。

*漫画の無いようについては、完全にわたしの記憶のみにて再現されているため、実際のものと異なる場合があります。
 質実剛健、といえば、コレに勝るもの無し?と思っている。
 チタンのフレーム、秒まで刻まれた文字盤と日付け機能、そしてソーラーテック、いかにもドイツらしい、質実剛健っぷり。

 あまりにメカメカしいので、こどもたちには人気があった。
 今でも、SKAGENとほぼ交互に身につけている。
 久しぶりに日記らしいことをしてみんとてするなり。

 思い返せばわたしはずっと以前、中学生の頃、腕時計が大好きで、四六時中身につけていた。
 しかし、高校生になった頃、坂本龍一が雑誌(たぶん日本版WIREDだったかと記憶している)かなんかの質問コーナーで、腕時計について、「身につけない。重いし何か吸い取られそうな気がするから(笑)」なんて言っていたものだから、わたしはその日から腕時計をやめてみた。
 久しぶりにある程度の重量から開放された左腕はとても寂しくて、しばらくの間、ときおりそこにまだ時計があるかのように文字盤を覗き込む仕草をしてはひとり赤面してさりげなく手を下ろしていた。おそらく、全く不自然な動きではあっただろう。

 その後、携帯電話を持つことで、さらに腕時計の必要性は低下し、わたしの左手はいつも空白だった。その軽さにもなれてきた頃、仕事の都合上、腕時計がわりと必要になってしまったのだ。
 しかも、かわいらしいオサレな品ではなく、なるべく質実剛健なものが必要である。だが、どうしても、G−SHOCKは避けたかった。
 そうして現在、もう一個と交互につけている時計がコレである。生活防水、シンプル、なにより薄い。
 文字盤の薄さはおよそ6mm。
 つけていることを忘れそうになるような薄さ、幼いあこがれから左腕をフリーにしたわたしにも、邪魔になることのない、デンマーク生まれのかわいいやつなのである。
 
 
垣間見えた 笑顔

 参加している誰もが楽しそうにしている曲が、わりと好きだ。
 そして、この群青日和もやっぱりそうだ。

 まあ実のところ、久しぶりにカラオケに行ってみて、「本人出演映像」のなかにコレがあったものだから、思わず見たくなるってもんでしょう?

 黒子を外して、鎖骨を浮き上がらせた女王様、椎名林檎がジャカジャカ謳っている映像の合間に、なんだかとても楽しそうに演奏するメンバーが映し出されている。
 女王様/林檎は無表情にクールにシブくポーズや顔をきめて歌っているのだが、ふと、最後の最後で、うつむいて「くすり」と笑ったのだ。

 だれかとオンガクをやっていて、時々どうしようもなく「楽しく」なってしまう時がある。楽しいテンションがあがって、自然と笑みがこぼれてしまうのだ。林檎の「くすり」もそんなかんじだった。
 映像の終わりには、ついに彼女は手で口元を押さえて、やっぱり笑っている。そうそう、そういう楽しさ。あーどうしよう、このバンドはとってもたのしい!という歓喜にメンバーが一体となって向かっていく瞬間。クールな東京事変における思春期の熱血部活みたいなノリ。この椎名林檎の笑顔をひきだした「東京事変」もすごいし、このPV作った人もよくぞこの映像を入れてくれた。 わたし、これを観れただけでも、敢えて熱唱した甲斐があるってもんです。
停滞でも疾走でも跳躍でもなく


 くるりを聴いていて思い浮かぶのは、例えば映画「ブエノスアイレス」のワンシーンである夜のブエノスアイレスの定点カメラ、早回し、みたいな。雑踏の中で立ち止まった印象である。

 脱力しているようでいて、なかなかに戦略的な曲が多い。
 停滞し、内向していく訳でもなく。時代や世相に合わせて疾走するのでもなく。時代や自分の内省を跳躍するのでもなく。
 爆発的なちからを持たず、蓄積せず。消耗しないが消費をし。
 世界は破壊すべきものでも、迎合すべきものでも、超越すべきものでもなく、観察し、ときにそこに会わせ、ときに少しだけ反発してみる、といったような。

 全然古いのだけど、岡野玲子「ファンシィダンス」のなかの、陽平がお山から降りてきてパチプロとかやって無茶苦茶に行きている時に、最愛の人真朱サンに説明した『都会』の印象、
「都会の時間の流れ方は、同じ早さで歩いてないと不安になる、立ち止まるとTVの砂嵐のようにまわりが全くつかめなくなる、だから自分はいま、敢えて立ち止まっているのだ」(うろ覚え)
という一コマを思い出してしまう。なんとなく。

夏至

2006年7月25日 活動写真集
ベトナム・ハノイの三姉妹が、母の命日に集まった。彼女たちはとても仲がよく、どんなことでも語り合ってきたが、それぞれ姉妹にさえ話せない、恋の秘密を抱えていた…。 『青いパパイヤの香り』で、そのデリケートな映像センスが注目されたトラン・アン・ユン監督作。不倫、妊娠、浮気などなど、さまざまな恋愛の形が、しっとりとした映像で描かれている。

 わたしが1年の中で一番好きな日を挙げるとしたら、それは誕生日でも記念日でもなく、「夏至」である。
 どうしようもなく、陽が長いのがよい。
 ぎりぎりまで間延びした昼が、たとえ予定がなくとも、なんともうきうきとした気持ちにさせてくれるし、夏に向かっていく過程での梅雨空の晴れ間、という奥ゆかしさもよい。
 
 外勤を終えて外に出て、既にとっぷりと陽が暮れて暗いときには、なんとも疲れ果てて1日がもう終わっちゃったと切ない気持ちになるのに、この時期はまだ日が高くて、もう少し、何か出来そうな気持ちになる。得した気分になる。
 それは幼少期、1年の1/4を薄暗く重い空の下で過ごしていたからか、日焼けは嫌いだけれど、陽の光はなんとなく愛着がある。そんなわけで「夏至」が過ぎてしまった今、この先短くなる一方の昼を忍びながら、とりあえず夏に向けて明るい夕方を謳歌してみる。
”なつ”さんのコメントをみて、また読みたくなり、段ボールから引っ張りだしてみた。
 確か、この本の冒頭の短編に、特殊な災厄の避け方を考案し、実行してしまう、狂気の実業家の話があったはず。

 人形佐七もそうですが、この時代の国内ミステリの雰囲気は割と好きです。鮎川哲也とか。
 自分でも、正直なところ、ちょっと悪趣味なのでは?と思うこともしきりなのだが、わたしはわりとこういう本が好きだ。

 数年前、何かの講演会を聴講しなくてはならなかったとき、演者が問いかけた。「みなさんは性善説ですか、性悪説ですか?」
 わたしは迷うことも無く「性悪説」に手を挙げたのだが、数十人の受講生のうち、手を挙げたのはわたしを入れて2人だけだった。当時の上司とかもふつーに「性善説」に手を挙げていて、素で驚いた。みんな楽観的なんだな、と。

 そもそもそういう分け方がどうか、という点はさておき、どう考えてみても、性善説のように楽観的にはなれないのである。
 そして、社会的に人道的によろしくない猟奇的なことを犯してしまう古今東西の人たちが、何を契機にその悪性を発動させてしまったか、興味がないと言ったら嘘になる。

 とはいえ、実は大層な恐がりなものだから、不当な、意味の無い、救いの無い怪奇については本当に苦手である。できれば怪奇には回避方法があってほしい。たとえば、廃村や廃墟には近づかないとか、吹雪の山荘には宿泊しないとか、3日に一度しか船が来ない島へ行かないとか、謎の招待状に喜んでのこのこと旅支度をしないとか、うまい話には乗らないとか、…たぶんこの調子でわたしなりの怪奇回避方法を実践していれば、きっと怪奇はわたしの頭上で羽ばたかない、きっと死兆星は頭上に瞬かない、と信じたい。
 性悪説はわたしの自己防衛本能であり、悪趣味かもしれないけど恐がりであるという自己矛盾はおそらく解決しないのだろう。

下妻物語

2006年6月6日 活動写真集
 わたしの仕事先の秘書さんは、ちょっと乙女チックなスーパーーオールドミスで、普段はとっても優しいいい人なのだが、数年前から更年期障害の影響なのか、気分や仕事ぶりにムラがあり、ときにわたしたちを苛立たせる。
 その乙女チックぶりとは、なんというかローラアシュレイというか、赤毛のアンというか、そういう感じ。
 先日、職場の先輩の結婚式があったのだが、その際の彼女の衣装は、ひとフレーズで言うと「田舎のちょっとした難事件もロッキングチェアに座って編み物をしたまま解決しちゃう感じ」であった。これには同席していた数人の力強い同意を得た。袖の膨らんだブラウス、ふくらはぎ途中迄のスカート、同じ生地のケープ、小さく丸いレンズの眼鏡…それはミス・マープルだった。

 そのマープルがこの間、前日の新聞を見ながら、
「あらーッ、下妻物語って昨日だったんだ〜。観ようと思ってたのに忘れちゃった?。」
なんていうものだから、なんだか無視しがたいではないか。

茨城県・下妻に住み、ぶりぶりのロリータ・ファッションに身を包んだ少女・桃子(深田恭子)がヤンキーのイチゴ(土屋アンナ)と出会い、数々の騒動に巻き込まれながらも強力な生き様を貫く、嶽本野ばら原作のハイパーパワフルな乙女たちの純情物語。 「私はマリー・アントワネットの生まれ変わり」という発言をしたフカキョン嬢をTVでみた監督が…


 今更だけど、好きな服も、好きな音楽も、好きな本も、好きな食べ物も、どうしたってその人の輪郭を浮かび上がらせてしまう。普段人前では、好きなものを語ることは難しい、恥ずかしいから。
 でも、桃子もイチゴも恥ずかしくない訳ですよ。好きなお洋服を着ていて幸せなのですよ、表現していることに自信を持っているわけですね、それが二人の仲の良さっていうか。
 わたしは先端でも末端でもないテキトーな服を着て、それも一日のなかで30分程度しか着ていなくて、一日のほとんどはユニフォームに身を包み、なるべく自分らしさから遠いところに身を置く日々である。だからこそ、ちょっぴり自分の衣装に自信を持っている人に、羨望と微妙さを感じざるを得ない、のが本音なところ。
 衣装は意匠の異称なんじゃないか、って少し思った。なんつって。
 この間迄は杉浦日向子週間だったのだが、そのあとに来たのが久々の二階堂黎人週間である。
 思春期頃に初読したときには比較的大興奮でその謎に引き込まれていたのだが、改めて今読み返すと、犯人とか謎とかがちょくちょく分かってしまって、嬉しいような寂しいような。

 バラ迷宮、ユリ迷宮、聖アウスラ修道院の惨劇などなどここ2週間ばかり読んでいたわけだが、やはりどうも人狼城の恐怖には手が伸びなかった。いくら何でもあの4部作はつらいだろうと思って。京極シリーズを読み返すのと同じだけの度胸が必要だ。

 もっと時間がほしい。時間が。
 それで、世間様はゴールデンウィークなところ、わたしは杉浦日向子ウィークなのであるが、このひとの漫画が寝る前の瞬間にふさわしいと思うのは、「淡々と」しているからか。

 江戸の日常、なんてわたしには知る術もないが、おそらく、おそらく彼女の漫画はその日常の続きで始まり、日常へ続いて終わるのである。どかんとした爆笑をさそう場面もなければ、そこはかとなく涙あふれる場面もない。
 そこにあるのは「くすり」「にんまり」したくなるのんびりと愉快な場面や、「んー」とちょっぴり神妙な心持ちになってしまうやや切なげな場面である。
 それらはいつも、長屋の立て付けの悪い扉や、湯屋の二階や、人々の行き交う橋の上、下級武士の竹光、遊び人の本田髷、遊女のキセルの羅宇に、縁側の猫に、家庭に一冊・吉原細見に、町娘の袖に、そういうものによって瞬間、切り取られているかのようだ。
 短編が多いのであるが、それはどれも、「主題はこうだッ」という押しはなく、そのラストシーンはいつも続きがありそうななさそうな日常感に溢れている。言いたいことを言い切らない、いっそ言いたいことないわさ、とさらっと言わんばかりの江戸の潔さが、杉浦日向子の漫画全体に広がっているようだ。
 きっと、それが粋なのだと、少しの哀愁を秘めた潔い爽やかさとともに、眠りにつく。
 そうはいっても、誰も信じてくれやしないとは思うが、実際のところわたしは意外と人見知りで、不特定多数との人付き合いは比較的苦手である。

 まあ、そんなわたしがちょっぴり古巣とはいえ、新しい環境で一日平均14時間も過ごすのだから、なんというか、疲れがたまらないわけがない。

 そして、寝る前の20分ほど、引っ越しを繰り返すたびに増殖を実感する本棚のケースから、微妙に分類された文庫本たちをとりだし、読みながら眠りの時を待つのがほぼ日課である。

 (ひさしぶりの更新だけれども、なんだかしっかり日記風の書き出しではないか)

 で、いまは杉浦日向子週間である。
 故人が紡いだ江戸の風景は、なんだか疲労した気持ちをほわーんとさせるように、ちょっといい話とか、ちょっと切ない話とか、その野暮じゃない風味が心地よいのである。
 
 根元的にはわたしも熱血なのだろうが、それでもしかし、熱血を全面に展開して全く恥ずかしくない熱血漢というのに対して、どうしてときにうんざりといらいらとさせられるのだろうか。
 それは、きっと、熱血さを前に出すのは野暮で、クールでいながら実は熱血のほうが粋だからだろう。黒い羽織に緋縮緬が当時とっても粋だったのと同じか。

 さても、現代のわたしは通人にもなれず、粋でもなく、かといって野暮でもなく、そう、幇間のような、えへへ、旦那、今日もいい月でござんすねえ、なんてやってる三枚目の芸達者くらいなんだろうね。

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